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12月、声と風景にまつわる些末なあれこれ

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 更新しようとしては立ち止まって、このブログにももはやカビが生えている。年を越す前に、ふと思い立って書き始めた。 これから書くのはメモ書きのようなもの。1月19日からはじまる『父の死と夜ノ森』の制作のなかで感じていることと、最近見たいくつかの作品について。 声から風景を想像する 人は誰かに自分の経験を伝えるときに、その出来事について想像しながら話している。聞いている側は、相手の言葉を通じて、その内容について想像する。この2つの想像は、重なる部分もあるけれども、同じではない。 聞き手が想像するときに用いるのは大概、自分の経験だ。去年観たムニの『須磨浦旅行譚』(2019)の再演で語られる風景から、私はその前の月にたまたまはじめて訪れた瀬戸内海の海を強烈に想像する。須磨浦は瀬戸内海ではない?のかもしれないけれど、車から見える海にはきっと、対岸がうっすらと意識できるはずだ。 こんなことがあった。屋根裏ハイツでよくやっているワークショップのひとつに「他者の経験をあたかも自分が経験したかのように語る」というものがある(というか、これひとつしかない)。二人一組になり、一方が自分の経験を語り、それに対して他方はメモなどを取らずに聞く。気になるところは質問しても良い。いけるな、と思ったらそれをあたかも自分が経験したかのように語ってみる、というもの。ある方のエピソードで、冬場に海辺にあるスジャータとかのソフトクリームが売ってる店で母と並んでアイスを食べる、という話があり、それを“あたかも自分が経験したかのように”喋ったペアの方が、どうも合点しない感じで話していた。 聞いてみると、最初の方の出身は山口で、瀬戸内海のことを想像して話しており、対するペアの方は石川の出身で、日本海側の海を想像して話していたのだ。荒れ狂う日本海の浜辺で確かに、アイスを冬場に舐めるということはなさそうだ。 瀬戸内海の凪いだ海の姿を挿入することで、ペアの方の話にも説得力が生まれた気がした。 つまり、なにかしら自らの経験から補って、私たちは語りから風景を想像する。 2022年5月のワークショップの様子 想像できないと語れない? 同じワークショップで、今度はインドの山奥の村で暮らしてきた時の光景を体験として語った人がいた。ペアの人はそれを「あたかも自分が経験したかのように」話すことができなかった。それを引用できるような