2019年1月6日日曜日

舞台を流れる時間についてのこと

あけましておめでとうございます。中村大地です。
あけましてというのももうだいぶ日が経ってしまったか。さて、これが最後の稽古日誌です。今回の作品は予想以上に評判が良かった。評判がいいというか、客席が普段の上演よりも集中して作品に付き合ってくれている、と思える上演が多くて、それはとても良かった。徳永さんをはじめ、様々な方に声の小ささについて言及していただいたので、そのことについて書きます。









こんなふうに書いていただいて甚だ恐縮というか、この翌日俳優にめちゃくちゃからかわれたわけだが(笑)、だんだん声が上がっていくということや、最初の頻繁な出入りはそこまでめちゃくちゃ意識立てて演出がやっているわけではない。むしろ落ち着きないのは面白いかなー、くらいの感じ…恥ずかしながら。
自覚的にやっているということとしては

・脚本の構造上人が増えていくので、自動的に声や態度に変化が生まれざるを得ないということ。2人のときと4人のときでは身振りが異なるだろうということ。
・はじめを小さく始めることで、観客の耳を『チューニング』すること。

ここらへんは前作「とおくはちかい」のときにやってたので確信があったし、俳優との間でもコンセンサスを取って自覚的にやっていたと思う。
「チューニング」という言葉は稽古場でも使っていた。演劇の上演に置いて冒頭のシーン(からどれくらい時間を掛けるかはそれぞれだけれど)というのは、物語の冒頭・場面設定という以外に、作品のルール、いわば見方を観客と共有するために大概据えられていて、この作品で言えば観客に「ちょっとだいぶ声がちっちゃいんで、積極的に聞いていただかないとあまり作品に入り込めないですよ」という注意喚起を、冒頭のシーンでしている。観客に『聞く耳』を持ってもらうための数分間だ。
『チューニング』というふうに言うかはともかく、多く演劇作品はこのようにデザインされている(と、僕は思っている。)そしてそのチューニングによって、観客の身体の状態は実は操作されている。というか観客は無意識か意識的にか、冒頭の数分間によって上演の時間と、自分の身体をチューニングしているはずだ。このチューニングがうまくいかないと、「よくわからなかった」となったり、寝てしまったりする。(ちなみに、寝て起きると急にチューニングがあったりすることもある、完全な雑談だけど)
たとえば劇団どくんごは必ずこういう形で劇の冒頭を始め、観客をチューニングする。
「今から、出し物をします。どくんごのお芝居はね、お話とか、ないから!つながりとか、ないから!だからそういう事を考えて見ても、無駄です。」
言葉は必ずしもあってないかもしれないけど、必ずこういう風にして上演が始まる。だから観客は安心して奇っ怪な出し物を見つめ続けることができる。ここまでわかりやすいチューニングもないが、どの演劇の上演もそういう操作がされている。
弦楽器のことを考えるとわかりやすいかもしれない。弦楽器は演奏前にかならずチューニングをする。ギターであればペグと呼ばれる部分で弦のテンション(張り具合)をゆるめたりより強めたりしながら調音する。その場が乾燥しているか、湿度が高いのか、新しい弦か古い弦か、演奏する曲目によって変則チューニングを取り入れることもある。そういった状況を鑑み、毎回毎回チューニングという操作は行われる。ライブを見に行った時、大概MCとかのタイミングでギタリストやベーシストがペグをくるくるしながらチューニングしている姿が見られるだろう。そういう操作が、観るときの身体(=弦楽器)には起きている、と思ってほしい。
そして、演劇の場合は弦ではなくて、「時間(感覚)」をチューニングしているはずだ。

演劇の上演には3つの時間が流れている。これはどの劇もそうなのかはわからないけれど、すくなくともこの作品では、

・観客が見ている今ここの時間(=実時間)
・舞台上で流れている部屋の時間
・物語の時間

という3つの時間が流れている。通常は舞台の時間=物語の時間と観客の時間を分かち、物語の時間に観客を没入させる。俳優も物語の身体を持ち(つまり、キャラクターを背負い)大概時間の経過は観客が見ている今ここの時間よりも速い。なので、そのように舞台はデザインされ、観客は実時間よりも速い、舞台の時間に自分の時間をチューニングする。

屋根裏ハイツの劇では、観客が見ている今ここの時間と舞台上で流れている部屋の時間がイコールになることが基本的には目指されている。イコールになるということは、観客は発される言葉と同等に身振りや身体のありよう、それからそこにある物質(テーブルやソファ)のことが意識できる、ということを意味している。日常私達は話をする以外に様々なことを同時にしていて、同時に意識している。ただ演劇の上演を観るときは、(演劇に親しみを覚え、よく視ている人であればあるほど)演劇を見るときの通常チューニングみたいなものがあって、それはつまり上述のような今ここよりも速い、物語の時間をプリセットでスタンバイさせていることが多いので、それを一度解きほぐし、日常の時間に近づけさせるための時間が必要になる。
僕の中では、物語はこの「今ここの時間」の身体を見てもらうための補助線に過ぎない。物語があることによって、時間の累積や出来事の蓄積をストレスなく観客が体感できるようにする、そのための補助線として位置づけてもいる。それによって失われることもある。物語の時間というのは強い。物語は時間的で、ある一定の時間の経過を観客と共有する上演という構造ととても相性が良く、そのラインを追いかけることは演者にとっても観客にとっても楽なことだ。そこによってしまうと、あらゆる身振りや動きが物語に回収され、あえて残していたと言ってもいい「不明」や、「余地」の部分が意味となって形を帯びてしまう。多くの演劇では、あらゆる身振りや動きが物語に意味づけられ紐付けられることは、むしろその動きが効果したことを指すかもしれないが、そもそもそんなに太い幹のストーリーがあるわけではない今回の作品ではストーリーに観客の関心が言ってしまうよりも、舞台上の身体の状態、流れている部屋の時間を観客が捉えたほうが良い。
だから僕たちの間では、上演が物語に引っ張られ過ぎたと感じられたときは「失敗」である、ということにしていた。(これは上演前に決めていたというよりは、公演を重ねていく中で言語化されていったと思う。)

この「今ここの時間」を常に実現するために正直事前にできることというのはない。
このタイミングでこう動く、みたいなことをすべて決めてしまっては、毎回毎回条件の違う上演において物語の時間につなぐことにはなれど、今ここからは離れてしまうだろう。
とはいえ全ての動きがアドリブなわけではない。むしろいわゆる「アドリブ」と呼ばれる部分は一つもない。「アドリブ」は舞台上で流れている時間を一度中断し、現実の時間を入れ込んでしまう。それでは積み重ねられた舞台上の時間が崩れてしまう。
だから俳優は毎回毎回、現実の時間と、物語の時間と、舞台上で流れている部屋の時間、この3つの均衡を保ち、どこか一つに寄せないようにするという作業をしていた。と思う。毎回毎回、観客の状況を見ながら、味わいつつ、物語のレールに乗りすぎないように、あの部屋を過ごすということを念頭に起きながらテキストを遂行していた。

ということを、うまく言葉化できたのは今回が初めてだ。今まではここまで自覚的に時間を操作してこなかった。それは俳優とそういうイメージを共有できていなかったからだし、演出がなにか手を施さなければならないということに縛られていた。
今回は上演後にしていた作業はいつも、「こんなふうに見えた」とか、「この動きは良くなかった」という感想を言うだけで、「これをこういうふうに変えてほしい」ということはなかったように思う。その感想を受けて、俳優は自分たちの動きの精度を高めていっていたと思う。セリフ飛ばしたりは割とちゃんと言ってた気がするけど。

その分上演ごとに出来不出来があまりなく、むしろ毎回体感の違う上演になったのでは、と自己分析している。
ちなみに横浜公演の千秋楽が終わったあと、(僕はレンタカーを置きにいったりで遅れて参加した)打ち上げの席で俳優が最後の上演はどうったのか?と感想を求められた。こういうのもあんまりこれまでなかったような気がする。公演は閉じたけど作品は閉じていないような、また続きをやってみたいような感覚になった。

という、こんな発見があった。ところで稽古日誌は閉じようと思います。
アンケートまとめも公開しました。 
12日には東京で、14日には仙台で検証企画も控えてます。
皆さんのご来場お待ちしてます。

検証企画まで期間限定で公演の映像を公開します。

仙台公演 撮影:小森はるか
横浜公演 撮影:佐藤駿(定点です)

よかったらこちらもどうぞ。

振り返ってばかりですが次の作品を作るためにまた進んでいこうと思います。
今年もどうぞよろしくおねがいします。

2019年1月5日土曜日

5F『ここは出口ではない』お客様の感想

2018年12月に仙台・横浜で上演された『ここは出口ではない』でお客様にご記入いただきました感想のうち、公開可能なものを公開いたします(誤字脱字などはそのまま反映しております)。
どうぞご覧ください。

  • すごくよかったです やってくれてありがとう
  • 屋根裏っぽい感情の欠らく感がよかったです。ひたすら水の中にもぐっていく感覚。
  • 前半の夫婦のせりふが聞きとりずらかった。会話劇として面白かった
  • 場面の転開が超スローに驚きを禁じえませんでした。間のとり方が超独特でびっくりです。初めての体験となりました。途中、自分ならどう考えてるのかと思ってもみました。貴重な体験となりました。ありがとうございました。
  • 2人の最初に登場したカップルのセリフが聞きとなれなくて、追っていくのが大変でした。ひそひそ話をのぞき見てる感覚という趣旨には合っているのだと思います。
  • 死者、生者、日常・舞台、言語・空想(記憶?)、舞台・客席etc. いろんな境界がとけある、静かで面白い劇でした。 楽しかったです!! おつかれさまでした! それと、チラシかっこいいですね!(語彙力0ですみません)
  • みんなちょっとの違和感があってみんなちょっと馴染んでいる。そんな不思議さが面白かったです。
  • 好きでした。普通に会話に混ざりたかった。
  • ようちゃんー まだ言葉にならないです
  • さとしゅんとストロングゼロがのみたくなりました。みにきてよかったです。
  • こんなに共演者と体感の長さが同じだと感じた舞台は始めてだった。死んだ人がまじっているのだから、観客もまざっていいよね、と思った。
  • 不思議とひきこまれました。いろんなこと考えました。言葉?の部分でひとつ残念なのは、途中で入ってきたお兄さんの気配と音でセリフがききとれなかったこと。となりのひとの衣ずれの音できこえなくなる台詞があったこと。どんなところにもそういうひとはいるので避けようにないのですが。
  • 特に印象的なこともないけど何年も覚えている”あのときの宅飲み”みたいなはだざわりが良い。好きです。
  • ありがとうございました。どうも
  • 今年たくさん知人を亡くしたのでこんなふうにふと会ってもう一度話せたらよいなと思ったし、たあいのない会話が、かけがえのないその人らしさだったりするなあと思った。とても低ーいテンションのなかで、じわーっと感じるものでした。
  • すごかったです。ふしぎな話で、日常が描かれていておもしろかったです。
  • 不思議な世界観でしたが、何だか和みました。
  • ヤマイの夢かなってLastみて思ったけど、しーちゃんの夢でこれは繰り返される1日だな、と。だが「出口はない」のね。 よこまこ みさわポジ?とおもったらさとしゅんさんがみさわだった。ケーキ食べてコーヒーのみたい作品だった。電車のトンネル抜けて、現実に戻ったらやっと深夜の宅飲みになった。
  • 記憶、時間、空間のすき間に入り込んだような劇でおもしろかったです
  • お疲れさまでした!ヤマイさんよかったです。
  • とても面白かったです。
  • 一緒に飲んでいるような、少し楽しい気持ちになりました
  • とても良かったです。東京でも公演があればまたぜひ観たいです。
  • 普通であること普通じゃなくてよかったです
  • 広島から観劇に来ていて、たまたま昨日ツイッターを見て急きょ予定に入れました。客席から物音がするたびに役者さんが、そちらを見ていたのが、どういう意味があったのかとても気になりました…。静かな芝居になれてなくて1列目でごそごそしてしまってごめんなさい。
  • 昔より気軽に見れるようになった気がする。しばいの変化だとしたらうれしい。個有名詞が少ないけれど、それが出てこない理由、ふれ幅はあるはず
  • 前回見たのがだいぶ前なのでアレですが…見やすかったです。会話劇たえられなくなるんですが、無理なくさいごまで見れました。
  • 部屋を囲む背の低いモノたち(小さくて、たくさんあって、並んでてかわいい)が良かったです。最後ヨウちゃんが部屋から去る時の、2人を?部屋を?見るまなざしが印象的でした。
  • 初めて演劇を体感しました。思っていた程重い内容ではなく、演劇初心者でも十分楽しめました。
  • 冒頭の髪の長さをいかしたソファ足かけシーンとが性的にいいなと思いました。 2カ月とよく忘れてしまうことの時間軸がむずかしい際どさがあるなと思いました。もう少し自然になれそう。同窓会級という単語が巧妙だなと思いました。
  • ツボでした。1日見ていたいです。
  • 千秋楽おつかれさまです。最近彼氏と別れたのですが、非常にどうでもよかったなと思いました。いい意味でも。暑かった。
  • 日常のあるあるのような、普段無意識にしている動作や言葉の感じがありました。とてもきれいな舞台でした。
  • なんかみんなうそなくやさしく心地よくなかよくなれそな感じのあたたかさがおもしろーい。こう書くとギゼン的だけどそうでもないのよね。良かったです。そでうらの水の音とかめちゃいい。
  • 知りあいに「静かなブタイですよ」と事前情報をもらっていたが、静かなりにいろいろあって面白かった。またみたいです。
  • 宮川さんがすごくすごくよかった やっぱり屋根裏はとても好き 夢の話をきいてる時、昔見た気がするけど実在してないだろう風景、みたいなもの? 昔から何回も思い出すけどどこかわからない場所、みたいなのがあるんですけど、それのことを久しぶりに思い出しました。
  • 目の前すぎて、びっくりしました。宮ちゃんが、宮ちゃんじゃないみたいで、びっくりしました。また呼んでいただけましたら幸いです。
  • とっても好きな雰囲気の演劇でした! 舞台美術がすてき。監視カメラをぼんやりとみているような感じがしました。ちょっと暑くて頭がボンヤリしました…。
  • 自然な会話の糸口に毎回耳を傾けたくなります。
  • 「死んでいる」とはどういうことなのか、「いる」とはどういうことなのかと思いました。人は、場面により名前が違う、役割が違う。いろいろなことを考えました。「覚えていない」という言葉が残っています。
  • テーブルにまざりたい気分になりました。変な、鑑賞体験。面白かったです、とても。
  • ・時間がとても長く感じた。 ・話を理解するのがとても難しかった。 ・この劇を見て何を得られたのか、何を感じたのか言葉にできない。
  • ハムスターの夢のエピソードが印象に残りました。
  • 少しけだるげな静かな空間や、ありえないことが起きているのにすっと受け入れて進んでいく会話がすごくおもしろかったです。
  • 静かで、目がはなせなかったです。死んでいるのと、生きているのの違いってなんだろうと思いました。実はそんなにないのかも…
  • きもちよかったです。ずーとフラットにみていられました。特別なことは何もないのだけど、でも伝わってくるものがありました。クリームに浸っていって、そのうちにミュウの体温を意識しなくなっていくの、すごいうまい表現だなと思いました。そういう悲しさ?さびしさ?ってあるよなーと
  • 演技らしくない自然なかんじがよかったです。自分も部屋にいるような気がする時がたまにあり、クリームは少しかんじられました。おもしろかったです。
  • おもしろかったです! 人の家をのぞき見してる感じがすごく好き!! 人の話をきいている時のしぐさが超かわいくて最高でした! 今まで見た中でいちばん好きです! また見にきまーす!!
  • 舞台は日常の風景という事で入りやすかった。世界が独創的で、もう1度思い出しながら、自分自身、色々と考えてみようと思う。きちんと、本の内容を理解できているかわからないがヨインを残す作品でした。演出上の事だと思うが、裏での会話が少し聞きとりにくく、内容が全て入らなかったので、もう少し音が大きいと良いなと思った。
  • 死んだ人ともう一生会わないであろう知人を何が違うのかと良く考えます。ベクトルは違いますが、また考えてしまいます。
  • お芝居と思えないぐらい会話がリアルでとてもおもしろかったです。
  • 気持ち良くのぞき見しました。 会話の空はくに4人の頭の中が見えるようで、一緒の居ごこちの悪さを感じました。途中で家感のあまり寝ころびたくなりました。
  • とても眠くなった。心地よい空間と声。興味は人にないのでごめんなさい。も一回見たくもある。
  • ついに死者と会えたし何の境界もなく話してた。会場暑かった…。
  • 屋根裏ハイツさんの劇を観るのは今回が初めてでしたが、独特な世界観というか雰囲気というかに引き込まれました。劇を観ているよりかは部屋の壁になった気分で、終演後も不思議な感じがします。90分本当にあっという間でした。すてきな舞台をありがとうございました。
  • 私だったら、展開早くする。ちんもくが長い。
  • なんだろう。こんなに静かな劇、初めてでした。こっち(客席)のほうが…うまく例えられないけれど「正しくない」気がしてくる。出会いって大事。そんな不思議な感じがする作品でした。
  • ジワジワきました。また観にきたいです。
  • 舞台と客席との境界があいまいで向こう側に入っていけそうな不思議さがありました。記憶のあいまいさとか…色々考えさせられました。
  • いろいろな人と話しているとその人が考えたことが次の話につながるあの感覚みたいなものを感じました。本当にのぞきみしてるような、その場にいるような気分になりました。
  • 亡くなった父のことを思い出しながらみていたけどそんなに悲しくならなかったです。ふしぎでした。観にこれてよかったです。ありがとうございました。
  • 言葉にできないです。おもしろかったです
  •  今はもう会えない人に私も会いたくなりました。「いるからいっか」のセリフが、なんとも心に残りました(いい意味で)
  • 普段の舞台と違って今回の客席含む空間がとてもやわらかで居心地よく、途中で気持ちよく寝てしまいました。すみません…。2回目をみたいな…と思いました。次は空間や雰囲気を見るのではなく、作品をみるために
  • とてもよかったです。空間の使い方も、音も明かりも、テキストも俳優のみなさんも。今後も応援しています。ぜひ仙台で作品を発表し続けてください。
  • 見ている内にどんどん引き込まれる不思議な感覚の舞台でした。
  • ねむい 前みたどれよりもよかったし、これは好きだけどねむかった、NHKの眠いいね的な客も自由なかんじならよくみれるかもしれない感じ はじまりからローテンションなので、ぬるっとはじまってうごけなく息くるしい、前のは好きじゃないけど、これはまだ好き ねむい
  • ナチュラルな演技が素晴らしかったです。話の間とか、世間話とか、何かをやっている時間とかをはしょらないことで、リアルタイムで物語の中に話の間とか、世間話とか、何かをやっている時間とかをはしょらないことで、リアルタイムで物語の中に入ったような感覚がして面白かったです。最より駅から劇場まで、歩いてきたのですが、人通りも少なく、暗いところだったので、物語の中で外の話とか駅の話がでてきたとき、今、外に出たら、本当真っ暗で、物語の中で外の話とか駅の話がでてきたとき、今、外に出たら本当真っ暗で、コンビニも閉まってるんじゃないかと不思議なかんかくにおちいりました。とても面白かったです。
  • 屋根裏ハイツさんの公演は初となりました。日常的な会話、仕草に引き込まれました。また機会があれば様々な作品をみてみたいです。
  • 難しい話だったなと一番に思いました。パンフレットの誰かの通訳がないといけないというなどから、このお話の通訳とは一体誰だったのか、それは私達だったのか、そしてこの物語は何に向かっているのかとてもフシギな90分でした。4人の人物1人1人の立場や感情が遠く、実際にありそうな話たちがとても印象に残っています。
  • 小説とかマンガを読んでるような感覚だった。ヨウちゃんが部屋出てくとき何かすごい切なくなった。
  • すごく日常をそのまま見ている様に感じました。独特な世界観だなあと思います。
  • 相づちとかツッコミとかついついしたくなりました。あの部屋に自分もいたかった。
  • 見ていてふしぎな気分になりました 普段の会話に非日常な事が混ざっておもしろかったです。
  • ヨウちゃんが、実際に現れることの意味が今回の主題のなかで、最後まで、わかりませんでした…。
  • (想起する)思い出すことについて考える時間でした。ではまた2回めで
  • おもしろかった。ずっとみてられます。
  • こわかったね、最初のコンビニしまってるから「あれ?」と思ったけどみんな死んでるんのね。
  • この空間でしかでもない演出が新鮮で良かったです
  • 分からないようで分かった気になってしまって、それがまるで部屋の中にいる人達になった気分だった。佐藤さんのそのままが役になってますね。
  • みれてよかったです。
  • 劇中、人物Cが登場したとき、AとBがあまりにも平然としていたので、数分間とても困惑しながら鑑賞していました。その困惑っぷりも含めて楽しませてもらいました。
  • 女の人ってなんで布団じゃないところで寝るんですかね
  • ゆうれいのがいねんがかわりました。あと、ビールのみたくなりました。
  • 今まで観た屋根裏ハイツさんの公演の中で一番好きでした。今までは観たあとに残る不快感の印象が強かったですが、今回はそれが全くなくて良かったです。安心して観られました。話が進んでいくにつれてどんどん自分も一緒に(電車の中のシーンなど)体験するのが楽しかったです。ありがとうございました!
  • 世界観が好きです。
  • 携帯鳴るのいい。すごくいい。キッチンの音いい。とてもいい。キャストの芝居もいい。色々書きたいけど、概ね、いい。たのしかったです。
  • 好みの空気、場所でした。舞台セットも綺麗で、居心地の悪い気持ち良さがよかったです。男性(主)がやけに忘れる理由、どうしても分からなくて気になっています。良い世界でした!ありがとうございます!
  • やわらかかった。生きていることと死んでしまったことは何かが決定的に違うはずなのにどっちでもいい。どっちでもいい。
  • 面白かった
  • 記憶のカケラが多い程、そして濃い程に、実体があたかも存在するように錯覚する…もしかすると、存在するように思い過ごしているモノが意外と多いのかも?
  • 「役に立つ演劇」を標ぼうする劇団の、現代の、伝統的な宗教観に属さない、弔いの作法として受け取めました。ヨウちゃんが「じゃあ、また」と言った時に泣きそうになりました。めっちゃ良かったです。
  • 会話の精度が高すぎなのか(高いという言葉が合っているかはわからないが)違和感のない、なめらかさ。けれども、記憶がとぎれとぎれだったりするところが、なめらかな中にざらりとした感触みたいなのが残って、不思議な体験。
  • 今まで見たことのないタイプの演げきでした。しずかな演ぎにとてもひきこまれました 見に来てよかったです。
  • ふしぎな時間が舞台上で流れていました!横山さんのセリフや間が、個人的に印象的でした。
  • これからも良い作品を生み続けて下さい。良いってどんなん?という話ではありますがよかったです。

2018年12月27日木曜日

12/6~12稽古

仙台公演が無事終了しました。ご来場いただきありがとうございました。
・・・くらいのペースでこの日誌を更新しようと思っていたら、横浜公演も終わってしまいました。幕が空いての評判や役者の雑感などは各SNSに任せるとしまして、本番直前までのことをとりあえず書いておこうと思います。
ちなみにTwitterでの観客の反応をまとめました。
→ 屋根裏ハイツ5F『ここは出口ではない』感想まとめ


12月6日 
屋根裏ハイツの長台詞は回り道が多くノイジーだ。その殆どは自分の経験談を話す、いわゆるエピソードトークと呼ばれるもの。男性チームがセリフをなかなか覚えられない、というところから、この長台詞どうやって覚えている?という話になった。
例えばこんなセリフがある。Aがお酒の失敗談とかない?と聞かれて答えたエピソード。

A すごい前の話なんだけどさ、いま中央公園になっているところっていってもわかんないか、中央公園ってところがあるんだけど、(Bにむかって)あるじゃん、(B うん)、そこはしばらく前まで公園じゃなくて空き地だったのね、一面空き地、でまだその空き地だった頃にそこで俺短期のバイトをやってたの、その空き地を使ってなんかでかいお祭りみたいなのをやろうって、すごい結構でかいバルーンとかがあったりして、仮設でいろいろステージとか組んでライブとかあって、屋台あってビール飲めて、みたいなのが夏の一ヶ月間だけ限定で展開されてたことがあったのね、結構楽しい感じの、そこのスタッフで一ヶ月働いてたんだけど、これ失敗談とかじゃないなって今話しながら思ってきたけど、そういうイベントって週末とかは、まあまあまあ、忙しいかなくらいのことなんだけどさ、正直平日はしかも平日の日中とかはクソ暇でさ、うわーって感じで、たぶんあのイベント自体は失敗だったんじゃないかって今思うと、週末は混んでたけど平日はホント全然で、そこでそのクソ暇な平日の夜にもうお客さんもこないしいいっしょみたいな感じで、店の人も半分ヤケでさ、すげえ早めに閉めちゃって、なんであんなことできたのかわかんないけど、早めに閉めて、バイトも集まってもう飲もうぜってなってさ、そのフェスみたいなところで、めちゃ飲みまくったのはすごい覚えてるな、自分たちの好きな音楽かけて、あんま、失敗談って感じじゃなかったけど(笑)


撮影:岩渕隆


人が自分のエピソードを語る時、話す前に、その話の終わりまでの道筋が完全に決まっていることはあまりない。とりわけ古い記憶になればうっすらとしたイメージを、ここでいうなら「平日の夜に勝手に店閉めてすげえ飲んだ」という体験を伝えるためにその場で話を組み立てていく。相手の反応によって、その場所になにがあるのかという外観の話を追加していったり、あげく要求されたエピソードではないということに気がついてしまったりする。話している内容を人は思ったようには話せないし、回り道やずれを繰り返しながら結果的に話してしまった、というのが日常会話の実際のところである。
上演の度にこの状態を作り上げるには、ただセリフを順番に発語するようではうまくない。稽古場ではセリフそのものを覚えるよりも、そのエピソードのイメージを作って覚えたほうがやりやすいというように話していた。僕はこの時、前述の日常会話の会話の起こり方のことや、自分自身がエピソードを話す時のことを想像しながら話していた。(僕自身はこうした長台詞を覚えたことがないので…)
けれども彼らいわく、「イメージを先に作ると自分の喋りたい順番で話が出てくるから、
それとこのセリフの順番との間にノッキングが起こってしまいむしろ話しづらい」。なるほど、確かに自分のエピソードを話すとき特にその環境のことや風景のことを話す時はその順番はあまり重要ではない。むしろ聞き手に応じたり、あるいは思いついた順番に話していく。そのことと、セリフという語順が決まっている指示書は仲良くない。そんなことも気が付かずにいたのだから、演出とはなんと勝手な立場だろうか。(覚えるの大変だとは思ってたけど)
じゃあどうするか。劇団員の村岡は「文節ごとにイメージしてそれを切りかえると覚えやすいかもしれない」と言う。
イメージと言う言葉からは、なぜか画像を思い浮かべがちだ(これは異論あるかもしれない)が、実は人のイメージは固定画像ではない。固定的であってもそこには時間の経過があり、音や匂いがある。もしイメージに拡張子があるとするならば、それは「.png」や「.jpeg」でもないし、ましてや「.m4a」でもなくて、あらゆる情報を包含した「.イメージ」としか言いようのないもので、それを持って本来人は話している。テキストからもそういった複合体のイメージを受け取って、それをもって話さなくてはいけない。




12月7、8日
1日稽古。ほとんど台本も離れて、動きながらの稽古をやっている。後一週間で本番ともなれば当然なんだけど。
長い時間を費やしたのは後半45分間の4人でしゃべるシーン。
テキストが身体に対して動きを要求することがある一方で、どのような体勢・状態であってもテキストの内容というものは成立するものでなくてはならないとこの稽古を通じて感じる。リア王がどのように演出されようともリア王たれるように、自分で書いたテキストもどのように料理してもそのテキストたらなければならない。これは言葉の意味を強くしたいとか、物語にこだわりたいとかそういうことではない。単純にそのほうがテキストとしての強度が高い、ということに過ぎない。そのために不要な部分は削るし、整理する。俳優の身体を通して言葉を聞くことでそれが俳優の腑に落ちてくる、そうすると聞く側の耳にも入ってくるようになる。入ってきやすいように言葉を変えてみる。こうした「腑に落とす」作業をねちねちとやっていくと、上演の輪郭が浮かび上がってくる。

ここらへんおぼろげな記憶なので曜日が確かじゃないけれど、日常の過ごし方の話もした。確か横山さんが稽古にいなかった日で、3人で横山さん登場前のシーンをやってたときのこと。小道具をどれくらい用意するかを迷っていた。どれくらい具体性のある空間にするのか、どれくらい抽象的な空間にするのか。渡している台本には村岡が携帯で通話するシーンがあるけれど、そこで僕は具体的にスマホを持って通話してほしいと思った。
そしたら佐藤くんが「僕らは持たなくていいのか?」と。「こんなに沈黙があったら、もし実際の僕だったら絶対スマホいじっちゃいます」宮川さんや村岡も同意する。休憩時間中に確かに僕も含めみんなスマホをいじっているし(最近一日どれくらいの時間スマホを見ているのかが表示されるようになったけど、僕は6時間くらい眺めているらしい…)、本当にスマホは僕たちの身体の一部だ。そういえば舞台でめちゃくちゃ普通にスマホ使う芝居ってあんまり見たことなくない?でも僕ら電話以外にゲームしたりメール見たり色々スマホ超使ってるよね、じゃあまあ使ってもいっか、でも日常の僕らくらい使っちゃうと物語の内容が入ってくるどころじゃなくなるので普段より程々にしようね、という話で、3人はスマホを持つことになった。


12月9日 
この稽古日誌的なものを読んでいても進行の度合いはわからないかもしれないけれど、ほぼ毎日一日稽古だから、稽古の進行速度は異様に速い。俳優の疲労も半端ない。10日が休みだから、無理矢理にでも通すことにする。
当然だけど通してみて初めて分かることは多い。腑に落とす作業をネチネチやっていたひたすら後半45分の面白さが際立つ。
見ていて気がついたこととしては、人数が増えていくごとに部屋での過ごし方が変わること。2人のときは自分の部屋をどのようにでも使えるけれど、人が増えれば増えるほど姿勢は正されてゆく。寝転がっていた身体が、ソファに座る様になり、挨拶をする時は正座をする。その体の質感の違いみたいなものは、面白がれるかなと思えた。
この日までずっと場転(演じている場所が変わること。)をやろうと思っていたんだけれど、それが全然効果しないどころかかえって害悪なのに気がついて該当シーンをバッサリカットすることを決める。些末な話しが淡々と積み重なっていく、その積み重なりを示すためには、それらがある部屋のなかで起こり続けていることを示すことのほうが重要だ、と判断する。

衣装の候補を打ち合わせて、後日買い出しに行くことを決める。

最終的な衣装はこうなりました


12月11・12日 
稽古休みを挟んで二日間の稽古。村岡と一緒に衣装探しもした。両日とも午後に練習して、夜に通すという流れ。
記憶が正しければ、がっつりカットして場転をやめた死者が登場するシーンをいくらかやったはずだ。元々は別の場所、ロータリーでの出来事を部屋の中でやってみる。ロータリーとはいえ、その場を説明する言葉が出てくるわけでもないこともあってか部屋で会話されても違和感なく見られる。ぜんぜん違う場所で起きていた停電が、一挙に部屋の出来事っぽくなるというか、後半の状況とリンクしだすみたいな偶然も起きた。
あんまりにも細かいセリフの切った張ったをやりそうになって、途中でやめる。それは作家の領分で、稽古の時間にあんまりやりすぎないほうが良いみたいな当たり前のことを思い出す。そもそも会話は100%論理でできていないから、理屈では通らなくても口に出すみたいなことができる。
カットも方針転換も功を奏し、だいぶスッキリした印象。時間も88分になった。
空調の音がうるさいとか外が賑やかだとか、それだけで作品に入れたり入れなかったりする。多分舞台にハエが飛んでいたらそれに負ける。ともかくこの作品はそういう質の作品だ。だから果たしてこの作品がちゃんと客を引き付けられ続けるのかというのが不安なまま実は初日を迎えることになる。(これは多分僕だけだけど)

このタイミングじゃなくて本番が始まってからいろいろ気がつくことがある。あと一つ、舞台の重心の話をしてこの記録のような読み物を閉じようと思う。多分長くなるのでそれは別立てで書くことにします。年明けまでにはあげよう・・・


2018年12月11日火曜日

12/1~5日稽古

まずは5日の稽古まで。
稽古の記録というよりは、稽古場で起きたことと僕が普段考えていることが並行して書かれている読み物という感じだろうか。

12月1日
10時前にバスタ新宿を出て仙台へと向かう。お世話になるゲストハウスにチェックインし、その足で稽古場へ。事前に共有しておいた台本の印刷物を手渡し、素読み。通りが悪いところの言葉を変えたりしながら、実際に発話されるとどのような体感をするのかを確かめる。この時点で想像できないことが累々起こるほうが良いのかは正直良くわからない。前は想定外がたくさん起こったほうが良いと思っていたけれど、本読みの時点では、意外とそんなことなくて、本読みとしてはあまりノイジーじゃないほうが良いのでは?と思い始めている最近。どんな読み方をしようとも通るような言葉のほうが自由度は高いのでは。自分で書いたテキストの場合、本読みってあんまり必要ないかなと思っていた。このときもさっさと立ち稽古したほうが良いなと感じていたはずだ。
この時点では終わりまで書き上がってないので、こんな作品になるはずだ的なことを勢い話してしまう。これは本当にあんまり意味のないことだと喋ってからいつも思う。ただエモみが増すだけだ。



12月2日
前日の深夜、稽古までの時間に修正は進んだけれど、終わりまで台本はたどり着かない。通りを良くしてページ数が増えた。
村岡が語るエピソードに関して、試しに文字ではなく作家の僕からの口伝で伝えてみる、これまでのワークどおり、周囲からの質問によって書かれていた言葉の内実がはっきりしてくる。身も蓋もない言い方をすれば脚本を書く参考になった、という感じ。(ほんとに身もふたもないな)
その後固まっている前半部分を舞台の上で読んでみる。最近「こう動け」という提案をした記憶が殆ど無かったけれど、最低限の動きを提案する。2人芝居とか1人がただエピソードを語るやつとかやってるから忘れていたけど、作家が戯曲で会話させている時に頭の中で動かしている(これは多分、演出家としても読み取れる範囲で)動線というものが存在して、それを実体化させる時には交通整理しないと成り立たないものもあったりする、から台本持ちながら稽古とかしたりするんですね、ということに気がつく。状況が飲み込めたほうが覚えやすいし。演劇の稽古におけるプロセスの一つ一つの意味が、今まであんまりわかっていなかったことが、少し合点がいったりする。
稽古後、ご飯食べながら一緒にゲストハウスに泊まっている人と作品の話をしたら見に来てくれると予約をもらった。日本語教育を学ぶ学生の方たち。ありがたいことだ。



12月3日 
この日は稽古休み。

12月4日
この日は昼夜稽古。台本が書き上がる。少し憑き物が落ちた気持ちになる。このペース感をもっとちゃんとつかめるといいのだけれど。書き上がったものを手渡し、最後まで通しで読む。作品の質感がはっきりする。
ダラダラとした会話劇、日常のテンションにとっても近い言葉のやり取りを、どうしたら常にスリルのある生感を保っていられるのか?と考えるときに、基本は舞台にいる、そこにいられさえすればいいのではと思う。テキストを読むことに引っ張られるのではなく、テキストを遂行するためだけに舞台に立つのではなく、そこにあること。
そのためにはいろいろ手を尽くさなくてはいけないのだけれど。
劇的な物語ではなく、そこにあること、そこで起こることだけを淡々とカメラに収めるように舞台を展開できないか、そんなことを考えていると、結局部屋芝居になってしまう。今回も部屋芝居だ。



12月5日
役作りってなんだろうか?と思う。俳優にも様々あって、キャラクターの持つストーリーやバックグラウンドをセリフの機微から想像して役を作っていくという人もいる。全然そういう作り込みはしないという人もいる。僕自身はあんまりそういうことに興味がない、というかよくわからない、ので例えばそういう種類の話をされると困ってしまう。だいたいお茶を濁しがちだ。
例えば、このキャラクターは図太い性格だ、みたいなことを俳優に伝えたとする。
その時に、テキスト上に書かれているさして図太さを必要としない行動の部分にまでその図太さが及んでしまうことがある。でも現実そんなことはないわけで、普段から図太い人はそもそもが図太いので、そのなかで喜怒哀楽とか、心の揺れとか普通にあって、それらは機微として現れてしまうものだ。機微より全体の図太さが勝ってしまうなんてことはない。空の色は青だからって全部絵の具の青色に塗るんですか?みたいなことを考えてもらうのがわかりやすいだろうか。ちゃんと濃淡がある。
稽古場で横山さんにそういう類のことを聞かれて、応答する。案の定というかやっぱりキャラクターが場にいることに勝ってしまっているような気がする。ところが、その後横山さんがでてくる同じシーンを三回くらい繰り返している内に(繰り返したということはもちろんその間に演出とのやり取りがあったのだが)、最初全面的に青かったキャンバス(キャラクター)に濃淡がだんだんと現れてきたのだ。身体や言葉に生感・質感が出てくる。演出の言っている「図太さ」(別にこの日この登場人物は図太いキャラです、みたいなことは言ってなくてもちろん比喩だ。)は、どのくらい図太いのか、図太くないのかというのは俳優自身にはわからない。そのためにまずはキャンバスを全面青で塗ってみて、ここは青くなくていいですね、雲増やしましょうかとか、そういうやりとりを重ねて、濃淡を付けていく作業。最終的に空の色が、どう考えたって緑が強くなってたって良いのだが、要はどこを出発点とするかの違いなのだなと思った。


2018年12月5日水曜日

10月26~28日 全体稽古

すっかり日が空いて、本番に向けたリハーサルが始まっている。台本も完本したし、少しだけだけど憑き物が落ちたような気持ち。
けれども稽古日誌は更新していなくて、10月末の3日間は、東京在住のキャストそれから僕もあわせて仙台入りし、全体ではじめての合同稽古を行った。
まずそれらの日のことを。

10月26日
僕に別件の仕事が入っており、やや短めの稽古。稽古場の扉を開けるとキャストがすでにそろっていて、各自身体を伸ばしていた。挨拶や自己紹介はそこそこに、時間もないので早速ワークに入る。前回の仙台稽古でもやっていた、他者のエピソードをあたかも自分が経験したかのように語り、それに対してもうひとりが質問をするというワーク。2人1組になってもらい、2組を同時進行で走らせる。お題は「小さい頃の記憶」。
一度交換が終わると、次はペアを入れ替えて、今度は先程もらった話を、別の誰かに伝える。伝言ゲームの要領で、何かがずれていったり、改変されたりしていく。






1回目
A(A)⇔B(B)、C(C)⇔D(D)

2回目
A(B)⇔C(D)、B(A)⇔D(C)

3回目
A(D)⇔B(C)、C(A)⇔D(B)



このように三回繰り返すと、全員が全部の話をあたかも自分の経験として持つようになる。ここまでで時間切れだったので、この話をあたかも自分がすべて経験したエピソードとして、一人の人に話してもらうことにして、この日の稽古を終える。
エピソードを語るとき、どのようにその光景を切り取るのか、実際に起きた出来事をどう捉えるのかというところに、彼らの身体感、平たく言えば個性みたいなものが見えてくるような気がする。





10月27日
この日はスタッフも揃って顔合わせ。スタッフは照明以外は前回から引き続きのチーム。
こういうときに本当は台本がばっちりあるといいのだけど。
顔合わせの後に稽古。
前日のそれぞれのエピソードの体験年齢がバラバラだったので、それを連続で話してもらいながら、自分の人生史として語ってもらった。一日空いていることでみんな話を忘れて突飛になっていくのかというと、そうではなくて、なんだか変な角が取れて丸くなっていくような、ちょっと普遍化した話になるような体感を持つ。持ちネタといえば持ちネタだし、だんだんみんな中身がわかってきたので、裏切りがなく退屈だということも当然ある。話し方を変えてもらったり、誰に向かって話すかを変えたりしながら、言葉を重ねていく作業を重ねる。
「とおくはちかい」のように2人で話すとあまりパターンがないけれど、4人だと関係性は様々作れる。1対3のレクチャースタイルとか、それでいて一人は全然聞いてないとか、4人車座でだらだらとおしゃべりのような構図を作ったりだとか。
今回も舞台美術を担当する大沢さんが「会話が場に積もっていくその積もり方が『とおくはちかい』のときとは全然違うというのは、当たり前なんだけど新鮮な体感だった」と言っていた。みんなしゃべってるだけなのに、なにか一枚薄い層のようなものが重なって、その場の見え方が変わったりしていく。

宅飲みみたいだ


多人数の会話というのは、2人での会話と3人での会話の組み合わせで成り立っているというような論文をどこかで昔読んだことがあったけれど、4人が積もらせていく言葉は、やっぱりその人数でしか出しようのない遠慮や駆け引きがあるのでは、と思う。


10月28日
この日は村岡がいなくて、他3人での稽古。
語りの時間から変わってやってみたのは、「ある状況を過ごす」ということ。
ファミレスやコンビニなどの生活空間を設定し、そこに身を置き振る舞ってもらう。そこに劇的な展開は起こらなくて良くて、ただ日常の時間と空間を切り取って、稽古場という異なる場所に置いてみる。
いわゆる劇の時間は往々にして日常の時間より速く、その速さにしばしばついていけない僕はこうした状況の時間を眺めているときのほうがよっぽどそこに劇を見出すことができる気がしている。質感でいうと、ドキュメンタリー映画に近い。

演劇(に限らずですが)を観る人、つまり観客の視点にたつと、物語る言葉を「聞く」時間と、ある状況におかれた人を「見る」時間というのは異なる。
前者はその語られる言葉の内容から頭の中でイメージを構築していき、後者はその人々を見ることで、その関係性の変化であるとか、そこで過ごす人々の状況だとかを想像していく、という作業を観客は見ながら無/意識的にしている。前者は落語、後者は例えばファミレスで向かいの席のカップルの会話がどうしても聞こえてしまう時、とかがわかり易いだろうか。
この2日間のワークショップでは語る時間を重ねていたけれど、そのようにして物語る人を状況の時間に置くことで、語りの時間と状況の時間をヌルヌルと(観客が)行き来することはできないだろうか?しかも、日常の身体を保った上で。
いいかえれば、ある状況下で過ごしている人々の言葉を聞いていたら、その最中いつのまにか提示されている状況とは異なる語りの世界に導かれている、というような体験をすることはできないだろうか?イメージの世界と、現実の世界を自由に行き来することができるとするならば、そのほうが、わたしたちの「日常」により近いのではないだろうか?

話がそれてしまったけど、そこへ行きつくまでの材料を示せたかなとは思う3日間だった。では引き続き12月の稽古日誌へ。