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SARPまでの道のり案内

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【加藤村岡のワクワク★お散歩~SARP編~】 今回『再開』の会場となるSARPは錦町にあるギャラリーです。 閑静な住宅街の中に位置し、一回来てしまえば分かりやすい場所にあるのですが、 地図だけで見ていると「どこだ…」という方もいらっしゃるかと思います。 そこで!今回出演者の加藤君と村岡が サイクリングしながら仙台駅からSARPまでの道のりを解説していきます。 まずは「仙台駅西口」を出て、「さくら野」の前に来ました。 「仙台駅西口」から「さくら野」までの道のりは西口に出たら「さくら野」の看板が見えると思うのでそれを頼りに来てください…。 加藤君のなんとも言えない顔。 「さくら野」に着いたら「仙台駅」を背中にして、右に曲がります。 あとはひたすらこの「愛宕上杉通り」をまっすぐ進みます。 右手に「半兵衛」を超えて、 美味しそうなクレープ屋さんも超えて、 「松屋」を超えると人混みが少し薄くなります。 しかしめげずにまっすぐ行きます。 桜がきれいな神社も超えて、 「仙台情報ビジネス専門学校」も超えます。 このでっかいドコモのビルを目指して来ると分かりやすいかもしれません。 左手にある「錦町公園」も過ぎて少し行くと、 右手に「サンクス」と「NHK」が見えてきます。 その間の路地を右へ曲がります。 まっすぐ行くと、ちょっと歪んだ十字路に出るので、 そこも歪んでまっすぐ行きます。 一つ目の建物を過ぎるとあら不思議。 あっという間にSARPに到着。 加藤君のなんとも言えない顔。 SARPはギャラリーが二つ並んでいます。 今回の会場は「左側」のギャラリーで行います。 仙台駅から歩いて大体20分くらいでしょうか。 自転車なら10分くらいかと思います。 ということは車なら5分くらいですね。 説明を読んでいただくとわかると通り、ほとんどまっすぐです。 「NHK」と「サンクス」の間の路地を入ると覚えておけばばっちりだと思います! 明日からとうとう開演いたします。 当日も1500円でご覧いただけますので、 偶然急に突然錦町付近でぽっかり一時間何故だか時間が空いてしまった!

「再開」 稽古日誌 4/23,24

23,24の稽古日誌をまとめて担当することにしました。 中村です。 まず23日は、稽古場にNOOKの酒井さん、長崎さんが来て下さり、いわゆる「種」の語りの撮影をした。ここで俳優たちにとってはほとんど一か月ぶりとなる「種」の語りは、多くの気付きをもたらすことになった。 何かといえば、テキストを通じて作った「種」の語りは、他のどの語りと比べても決定的に変化していて、言うならまったくあたらしい第四の語りが生まれたのではないかと思うほどだった。 伝承の過程を稽古過程に無理やりねじ込んだ今回の作品のなかで、電実際に起こる語り継ぎと決定的に異なってくるのは、「種」も含めた語り継ぐが和賀全員生きているということと、ある話においては「種」であった俳優も他の人の「種」を継ぐ継承する側になっているということである。 ここには、民話や伝説を語り継ぐ行為にはできない、不思議なフィードバック、循環のようなものが必然的に生まれる。 それが種の語りには生じている。 23日の通しから24日にかけては、誰が、どの物語を語ってもいい。ということになった。つまり伝承の結果である三番目の語り(※)を見せるとか、そういったことはかなぐり捨てて、せっかく実現した「全員が台本を全部覚えている(!)」という事実を取ることにしたのだ。 この判断によって、俳優は自由になった。自由であることは語りをグングン魅力的にした。何より重要で最大の発見なのは、「語りたいという欲求が無ければ、なかなか語りをすることはできない」ということである。 自由になった俳優が次々に語ることで、そこには「場」が生まれる。 過剰な装飾をすることなく、シンプルにした空間の中で、俳優の声だけで生み出す「場」は、これ以上なく一回性の空間になるだろう。 だから「見に来てほしい」とは思わなくなった。みなさん、ぜひ体感しに来て下さい。 当日も1500円。上演時間は1時間。フラっと遊びに来てくれればとてもうれしいです。 今回の上演の特性、稽古方法に関する解説はこちらのページをご覧ください。 http://yaneura-heights.blogspot.jp/2016/04/blog-post_26.html

「再開」 稽古の方法

【稽古の方法】※Facebookイベントページに書いた物と同じ 明日から本番まで休みなく集中稽古が始まります。 僕はここまで稽古に帯同できてないので、何より新たな語りを聞けることがとても楽しみです。 西和賀でやってたことも含めて、今回僕が着目したことについて改めて言及しようと思います。 テーマは「民話」のこの作品。ぼくがその中で着目したのは口伝えによる伝承行為でした。 それをどのように作品に反映させていったのかといえば、まず稽古のプロセスにそれを反映しました。3/12に行われた雪の演劇祭の当日パンフレットに載せた文言を一部転載します。 “ 作品の創作過程はざっと以下のようなものです。 1.出演者(たとえばAさん)は、3つほどの物語を覚えて練習する。 2.その覚えた物語をAさんは別の出演者(たとえば、Bさん)に向かって語り伝える。 3.そのようにして物語を語り伝えられたBさんが、今日皆様の前に登場し、語りを行う人物です。 AさんはAさんで、また別のCさんから物語を引き継ぎ、CさんはBさんから別の物語を引き継ぎ・・・という構図で物語を覚え、創作が進んでいきました。 (中略) ですが良き語り手となるべく彼らが、日々の中で良き聞き手足らんと勤めた足跡を少しでも残しておきたいと私は思いました。 滞在の中で、彼らは少なくない数の町の人々の話を聞き、語り手の身体を見つめ向き合ってきました。 そのこともまた、合わせて記しておこうと思います。” 字面で伝わりきらない面もあると思いますが、このような感じで進めていきました。 そして先週から再開している仙台公演に向けての準備稽古では、Aさんの語りはBさんを経てCさんへと引き継いでいました。 親から子へ、子から孫へと伝わっていく継承のプロセスを、無理やりやってみよう!というような心意気です。 俳優陣の稽古日誌を確認すれば、3世代目くらいからはどうやら変わってくるようです。 “ 稽古では、2人目が語る→3人目が語るというふうにしかやっていないが、2人目が語る、という補助輪を外して、いきなり3人目が語るとどうなるのだろうか。種→2人目の時もあったが、引き継いでからしばらくすると、語りは勝手に成長する。3人目の語りは、2人目の語りを聞いた直後の今でさえ、もうかなり元の語りとは別物なので、成長が楽しみ

3F『再開』稽古日誌 4/22

村岡です。 右の親知らずが痛いです。 今日は急遽昼稽古も追加しての長丁場でした。 が、私は別用で夜からの参加だったので、夜からのことを書きます。 夜は一発通しました。 一発目の通しは、なんだか上手くなかった。 なんというか、ただ時間だけが過ぎていくような、 時間の経過に伴って積み重なるものが何もなかったように感じた。 俳優がどうして語るのか、しかも他人の言葉を語るのか、 というところが腑に落ちなかった。 もう俳優としてどうなのという初歩で詰まったという。私が。 外的要因(アクシデント)によって語りが変化する、 というのは大事なことであるが、しかしそれだけでは、 受動しなくては変化しないのであればそれは 他人任せになってしまい、語り手には何も起こらなくなってしまう。 語り手のねらい、目的のようなものがなければ、 そこが0だと何が起こってもプラスにもマイナスにもならない。 そこで改めてこの作品、 そして民話から演出が思ったこと、 などなど1時間近く話した。 個人の話は引き継がれていくことで、 他人が話すことで、 抽象化されて個人の話ではなくなっていく。 抽象化された話は、 聞いた人個人につながる可能性が高くなる。 俳優は、個人の話を抽象化して聞き手とつなげることができる。 民話は語り手が話さなければ、誰にも聞かれることがなければ、 いつか消えてなくなってしまう。 その話を聞かせてくれた人の存在も、 そこでなくなってしまう。 というような話をしたと思う…。 また、ぶどう座のせつこばんばが話してくれた昔語りを思い出して、 語る、とはどういうことなのかも考え直した。 今回私たちが話す話は、古くから続く物語、というわけではないし、 この「民話なら」、という話がどこまで通用するのかはわからない。 それでも、私たちはせつこばんばの話を興味深く、乗り出して聞いたのだから そこには語り手として聞き手を惹きつけるものがあるはず。 聞き手が初めから聞くつもりで聞いているというのも重要な要素だと思うが その聞き手を最後まで惹きつけたまま、 物語の世界に導ける求心力はきっと民話に限らず通用する事だと

3F『再開』稽古記録 4/20

本稽古3日目。僕(松井)が稽古の時間を勘違いしていたせいで、稽古時間が少なくなってしまった。非常に申し訳ないです…。 この日も、3人目の語りの稽古から始めた。語りも、3代続くとある程度形が決まってきてしまう。今回のような、語りを短期間で集中して伝承する場合は、前の人のバージョンを見てから時間をおかずに自分の代の語りを伝承するから、なおさらである。なので、3代目の人は、引き継いだニュアンスを保ちつつ、形を捨てていかなければいけない。捨てても捨てても捨てきれないものこそが、引き継いだそのものであるはずだ。 ところが、この形を捨てるというのは大変なことで、何も考えずに形を変えると、引き継いだニュアンスは飛んでいってしまう。聞き手となる観客を第4の継手とするには、その観客との関係性の中で、即興的に聞き手をしっかり惹きつけつつ、継いできたニュアンスを伝えなければいけない。そうでないと面白くないし、そうでなくとも、引き継いできたことを必死に語り継いで、継いでいるのに、語り継ぎきれないことはある。 稽古の中で大地さんが言っていた、「リズム」はキーワードになる気がする。語り手は自分のリズムに聞き手をひきこむのではなく、あくまでも語りによって、物語のリズムに聞き手を誘うのだ。聞き手との関係の中で語りを生むことを忘れてはいけない。 唐突に好きな漫画の一節を引用しますが、 “あのさ、「リズム」ってのはもともと古代ギリシャの言葉でさ、世界を構成する「アトム」っていう物質の"動き"を、説明する言葉なんだ。アトムは世界の元だから、世界のすべてはアトムでできていて、だからなんにでもリズムはある。人間にも、犬にも。桜とか、ニンジン…砂、空気に水。たぶん、プラスチックにだって、それぞれに固有のリズムがある。 写真とか絵なのに「うた」っぽい感じがすること、あるだろ?無意識のうちにリズムを感じているのかもしれない。 川原でさ、石を拾う。なぜ、たくさんの石の中からそのひとつを選んだのか?母親と子供、双子同士、どうしてもほしくなった椅子……風景に感動したり、誰かを好きになったりするのも、お互いのリズムが響きあってるのかもしれない。 …それぞれのリズムが響きあうことで世界が形づくられているなら……俺たちから見れば世界は、(うたのようなものかもしれない)” 五十嵐大

3F『再開』稽古日誌4/19

本稽古二日目。 今日は3人目の語りの稽古をしました。 まず2人目の語りを聞いて、 それから3人目が演出に向かって語る。 2人目の語りを聞くのは、 それはつまり引継いでもらったのだが、 どうやらそれが作業になってきているようだった。 その問題はまず聞き手にあって、 「とりあえず充電しておくか」 的なテンションになっているようだった。 ように見えたようだった。 確かに2人目の語りを聞くとき、 重視していたのはニュアンスよりも どういう言葉で、どういう仕草で、どうやって話しているか、 ということの方だった気がする。 その話自体を楽しんで聞くということは随分前から、 もしかすると西和賀にいたときから起こり始めていた。 でもそれは語り手の問題でもあって、 語り手も、話を伝えるというよりも、 テキストを教える、動きを見せる、 そういう見世物を見せていたように思う。 これはどちらが、ということではなく、 なんとなくその二人の間でそういうことが起こっていた。 実際語るときは、語っている人は、 きっと相手とのコミュニケーションの中からその出力方法は自ずと出てくるものだし、 出力方法が違っていても、その話が含んでいる(と感じた)ニュアンスは きっと揺らぐことはない。 だからそういう見世物を見せるのであれば、 別にそれはもうする必要ない。 だったら動画撮ってそれ見てたらいいって話だ。 それでも実際語り聞かせてもらった方がいいというのは、 その声のトーンとか、動きだとか、そういうことではなくて、 その後ろにあるおおもとの根源に触れるためなんだろうなと思う。 伝えたいイメージ、ニュアンスがあって、 言葉・仕草という媒介があって、 聞き手に伝える。 思えば私たちは、ニュアンスやイメージを膨らましたり、 言葉や仕草を練習したりはしていたが、 聞き手に伝えるという部分がかなり無意識化されていた気がする。 そこが一番大事なのに、 そしてそれは不確定要素だというのに、 媒介の部分だけを一生懸命やっていた節があった。 言葉や仕草はあくまでそのニュアンスと聞き手の間にあるものなのだから、 聞き手が変わればそれはきっと変わってくるはずなのだった。 ということは、再三稽古で話されていたことだったと

3F『再開』稽古日誌4/17

俳優のみの稽古最終日。 前回までで一通り引継ぎは終わったはずなので、 この日は再度復習のような日になった。 この日の2日前、劇団ミーティングの流れで、 客演の加藤君と松井君も誘って実質的なキックオフ的な感じになった。 事の発端は、今回の公演をどんな形で上演するかという話し合いが ミーティング中に終わらず、場所を移さなければならなかったので、 せっかくだから、ということで集まった。 ので、結構がっつり話し合いだったし、面白い話も出たり、稽古状況の共有をしたりした。 稽古に関して挙がったのが、 2番目の語りが変化ではなく落ちている可能性があるという事だった。 1ヶ月というブランクの中で、抜け落ちた部分が、修復や補完をされずただ不完全になってしまっている、ということだった。 2人目の語りのニュアンスが弱いと、3人目はただひたすらテキストを憶える作業になってしまい、 テキストを見ていることと変わりがなくなってしまう。 この危機を共有して各々対策を練ってきたからか、この日の稽古は2人目の質が変わっている気がした。 または、この日はビデオカメラで撮影しながらの稽古だったので、その緊張感もあったのかもしれない。 この日の稽古で面白かったのは、 松井君がその2番目の語りの質を上げるために、 カメラに向かって一人で語るという自主練習をしていたそうなのだが、 カメラに向かって練習しても、聞き手がいると全く違うものになってしまうということだった。 今回の作品で何度も出てきている話だが、 「聞き手がいなければ語ることができない」ということに尽きるんだろうなと思った。 2日前のキックオフで、 語ることの必然性という話になった。 必然性のない語りは面白くない。 この話題で私が感じたことは、 その必然性は他者にあるべきなのではないかということだった。 どうして話すのか、ということを自分の中だけで解決してしまうのではなく、 他者の存在を入れ込む方がその動機は強くなるのではと思った。 必然性というよりは、それは関係性かもしれない。 昔語りで面白いのは、 その他者が確実に少なくても二方向にいることだと思う。 話している相手(聞き手)と、その話を聞かせ

3F『再開』稽古記録 4/18

本番前の集中稽古はじまりました。 制作のみさわです。 『再開』のイントロダクションとなる状態を考える回。 以下、今日の稽古での「語り」の感想メモです。 (まとめるのがめんどくさかったわけじゃないよ) ・俳優たちは、戯曲ではない、口伝によって聞いた話を語っている。それは三人称視点での話であり、一般的な台詞としては発語(?)し難いものだと感じる(台詞ではないけど)。なぜなら、演劇における三人称は、説明的になりがちなので、制作の現場では、それを排除する方向に傾倒してしまうから。  一般的に、俳優(というか舞台上に立つパフォーマー)は常に「必然性」を求めていると思う。つまり、自己の必然化。 「語る」という行為の必然性において、前回の稽古日誌で、他者に依拠する「必然性」ではないかと言及していたが、バランスが重要だ。押し売りにも、置いてきぼりにもならない「語り」とは何なのだろう。                                               ・語ることが、説明することに置き換わってしまった時点で、それは既に聞き手への「押し売り」状況に陥っている。 ・説明的な演劇の、何を避けたいのか、というと、必然化のフレームだけが強調されることを避けたいのでは? ・セレンディピティを大切にキャンペーン ・「聞き手」という身体があったとしても、その聞き手が、能動的な「聞き手」として語り手と関係が結ばれていない状態だと、語り「継ぐ」ということが成立していないのでは、という疑問。 それはつまり、いわゆる「モノローグ」(便宜的にこの言葉を使用しています)になっており、聞き手に、本当に引き継ぐ/語り継ぐ、という行為をしているのか?ということである。 ・インタヴュアーとインタヴュイー的な関係性とか? ・「語り継ぐ」ことは「教える」ことに似ている

3F『再開』稽古日誌 4/11

俳優のみでの稽古2日目。今日で、前回引き継いだ語りと合わせて、ほとんどすべての語りを全員が語れるようになるはずだ(!) 稽古で2人目から3人目へと語り継いでいて思うのは、1人目の種の語りは2人目・3人目の語りと比べるとかなり異質であるということだ。種の語りは、とても整理されていて、聞きやすかったり、自分で語っていてもスッと話せてしまうが、口伝で語り継がれた2人目3人目の語りはなんだか雑味がある。もちろんまだ語りの細部を思い出しながらというのもあるが、しかしそこでは、種の語りとは異なる解釈があったり、そもそもまったく違うこと言っていたりと、元のテキストからは想像もできないことが起きていて面白いのだ。 前回の稽古日誌で村岡さんも書いていたが、引き継ぐ、という行為自体が豊かになっているからかもしれない。 僕らは種の語りを知っているから、その違いを楽しめるけど、3人目の語りを初めて聞く人とかはどんな感想をもつのだろう。 稽古では、2人目が語る→3人目が語るというふうにしかやっていないが、2人目が語る、という補助輪を外して、いきなり3人目が語るとどうなるのだろうか。種→2人目の時もあったが、引き継いでからしばらくすると、語りは勝手に成長する。3人目の語りは、2人目の語りを聞いた直後の今でさえ、もうかなり元の語りとは別物なので、成長が楽しみである。 そういえば、死体の話、と呼んでいる一連の語りを引き継いでいるときに、面白いことがあった。死体の話は西和賀では1人目の種の語りを上演で使用したので、今回の稽古で1人目→2人目→3人目と引き継いでいたところ、ある語りを引き継ごうとしたときに、種の人が語りの正確な語順を思い出せなくなってしまった。そんなのテキストを見ればいい話だが、長くテキストを見るなと言われてきた僕らは、なんとなく、稽古や本番で聞いて覚えているその語りを、それっぽい感じで引き継いでいってしまった。もはや元の正確なテキストは存在せず、僕ら3人から生まれた語りである感じがしたのだ。 だけど、やっぱり次の稽古までに種の人は各自ちゃんとテキストを確認してこよう、という話になった。 引き継ぎのスピードがすごく早くなっていると思う。1人目→2人目は、一週間くらいかかった話もあったのに、同じ話が2人目→3人目だと、数回聞いて話しただけで、かなりできるようになっ

3F『再開』稽古日誌 4/8

屋根裏ハイツ3F『再開』の稽古が再開しました。 西和賀での滞在創作から約1ヶ月。 各々他の公演があったり、 大学に行ったり、 地方に飛び回っていたりと、 それぞれ動き回っていた1ヶ月。 久しぶりに集結した昨日は、 俳優だけの稽古でした。 西和賀では、"口伝"を使って、 一人目の人が身に付けたテキストを 二人目に伝承するという稽古を行ってきました。 今回は、さらに、 二人目の人が身に付けたテキストを 三人目に伝承するという稽古をしています。 つまり、この稽古が終わると 俳優三人全員が、 すべてのテキストを語れるようになるという。 仙台公演の本稽古は、 全員がすべてのテキストを語れる状況で始めます。 その準備稽古一回目でした。 1ヶ月経つと、二人目の語りがかなり変化していると思った。 1ヶ月寝かせたことで、腑に落ちているところが残り、 落ちきっていなかったところはあっさり手放されているように思った。 一人目にはなかったものが込められているところもあると思った。 西和賀で、ぶどう座のせつこさんの昔語を聞いたとき、 せつこさんは子供の頃おばあさんから聞いた物語を、 何十年と語ることがなかったと聞いた。 それでも、数十年経って語ることになって、 そのときはおばあさんの声が聞こえるのだと言う。 そこにはきっと、数十年という隔たりの中で、 せつこさんの思い込みが加わっているのではないだろうか。 それを今回の稽古で確信した。 それでも、語りとして成立しているのは、 その思い込みが強固に語り手の中で成立しているからだと思う。 聞き手のときに受け取ったイメージ、ニュアンスを、どれだけ自分の中で膨らませるか。 どれだけ空白を埋められるか、それをどれだけ確信できるか。 どれだけ自分の言葉にできるか、というのが、 普通の演劇では当たり前のことであるが、 改めてそのプロセスを辿れているように思った。 そう思うと、語りの種であった一人目は不在であってほしいと思う。 昨日の稽古では、二人目から三人目に口伝して行ったが、 次回は一人目→二人目→三人目全員回してみようという話が出た。 しかし改めて考えてみると、一人目を出現させてしまうと、 二人目はまた一人目のニュアンスをコピーしようと