2018年12月5日水曜日

10月26~28日 全体稽古

すっかり日が空いて、本番に向けたリハーサルが始まっている。台本も完本したし、少しだけだけど憑き物が落ちたような気持ち。
けれども稽古日誌は更新していなくて、10月末の3日間は、東京在住のキャストそれから僕もあわせて仙台入りし、全体ではじめての合同稽古を行った。
まずそれらの日のことを。

10月26日
僕に別件の仕事が入っており、やや短めの稽古。稽古場の扉を開けるとキャストがすでにそろっていて、各自身体を伸ばしていた。挨拶や自己紹介はそこそこに、時間もないので早速ワークに入る。前回の仙台稽古でもやっていた、他者のエピソードをあたかも自分が経験したかのように語り、それに対してもうひとりが質問をするというワーク。2人1組になってもらい、2組を同時進行で走らせる。お題は「小さい頃の記憶」。
一度交換が終わると、次はペアを入れ替えて、今度は先程もらった話を、別の誰かに伝える。伝言ゲームの要領で、何かがずれていったり、改変されたりしていく。






1回目
A(A)⇔B(B)、C(C)⇔D(D)

2回目
A(B)⇔C(D)、B(A)⇔D(C)

3回目
A(D)⇔B(C)、C(A)⇔D(B)



このように三回繰り返すと、全員が全部の話をあたかも自分の経験として持つようになる。ここまでで時間切れだったので、この話をあたかも自分がすべて経験したエピソードとして、一人の人に話してもらうことにして、この日の稽古を終える。
エピソードを語るとき、どのようにその光景を切り取るのか、実際に起きた出来事をどう捉えるのかというところに、彼らの身体感、平たく言えば個性みたいなものが見えてくるような気がする。





10月27日
この日はスタッフも揃って顔合わせ。スタッフは照明以外は前回から引き続きのチーム。
こういうときに本当は台本がばっちりあるといいのだけど。
顔合わせの後に稽古。
前日のそれぞれのエピソードの体験年齢がバラバラだったので、それを連続で話してもらいながら、自分の人生史として語ってもらった。一日空いていることでみんな話を忘れて突飛になっていくのかというと、そうではなくて、なんだか変な角が取れて丸くなっていくような、ちょっと普遍化した話になるような体感を持つ。持ちネタといえば持ちネタだし、だんだんみんな中身がわかってきたので、裏切りがなく退屈だということも当然ある。話し方を変えてもらったり、誰に向かって話すかを変えたりしながら、言葉を重ねていく作業を重ねる。
「とおくはちかい」のように2人で話すとあまりパターンがないけれど、4人だと関係性は様々作れる。1対3のレクチャースタイルとか、それでいて一人は全然聞いてないとか、4人車座でだらだらとおしゃべりのような構図を作ったりだとか。
今回も舞台美術を担当する大沢さんが「会話が場に積もっていくその積もり方が『とおくはちかい』のときとは全然違うというのは、当たり前なんだけど新鮮な体感だった」と言っていた。みんなしゃべってるだけなのに、なにか一枚薄い層のようなものが重なって、その場の見え方が変わったりしていく。

宅飲みみたいだ


多人数の会話というのは、2人での会話と3人での会話の組み合わせで成り立っているというような論文をどこかで昔読んだことがあったけれど、4人が積もらせていく言葉は、やっぱりその人数でしか出しようのない遠慮や駆け引きがあるのでは、と思う。


10月28日
この日は村岡がいなくて、他3人での稽古。
語りの時間から変わってやってみたのは、「ある状況を過ごす」ということ。
ファミレスやコンビニなどの生活空間を設定し、そこに身を置き振る舞ってもらう。そこに劇的な展開は起こらなくて良くて、ただ日常の時間と空間を切り取って、稽古場という異なる場所に置いてみる。
いわゆる劇の時間は往々にして日常の時間より速く、その速さにしばしばついていけない僕はこうした状況の時間を眺めているときのほうがよっぽどそこに劇を見出すことができる気がしている。質感でいうと、ドキュメンタリー映画に近い。

演劇(に限らずですが)を観る人、つまり観客の視点にたつと、物語る言葉を「聞く」時間と、ある状況におかれた人を「見る」時間というのは異なる。
前者はその語られる言葉の内容から頭の中でイメージを構築していき、後者はその人々を見ることで、その関係性の変化であるとか、そこで過ごす人々の状況だとかを想像していく、という作業を観客は見ながら無/意識的にしている。前者は落語、後者は例えばファミレスで向かいの席のカップルの会話がどうしても聞こえてしまう時、とかがわかり易いだろうか。
この2日間のワークショップでは語る時間を重ねていたけれど、そのようにして物語る人を状況の時間に置くことで、語りの時間と状況の時間をヌルヌルと(観客が)行き来することはできないだろうか?しかも、日常の身体を保った上で。
いいかえれば、ある状況下で過ごしている人々の言葉を聞いていたら、その最中いつのまにか提示されている状況とは異なる語りの世界に導かれている、というような体験をすることはできないだろうか?イメージの世界と、現実の世界を自由に行き来することができるとするならば、そのほうが、わたしたちの「日常」により近いのではないだろうか?

話がそれてしまったけど、そこへ行きつくまでの材料を示せたかなとは思う3日間だった。では引き続き12月の稽古日誌へ。


2018年10月11日木曜日

9/12東京稽古、24仙台稽古

すっかり更新が遅くなってしまった。このままだと先が思いやられる。
二回分の稽古記録を更新する。

12日@東京中村家
東京稽古の二回目は、散歩をしたりはせずに稽古をしてもらった。二回目だっけか、三回目のような気もする。だらだらと話をするという行為は変わらないんだけど、今回はトークテーマにお題が与えられた。「宇宙人に遭遇したとことがあるか?」というテーマ。
宇宙人というのはもちろん比喩で、同じ言語を話していても一向に通じ合わない人に会ったことがあるか?という意味で問うた。
考えている2人から、「外国人クラスには会ったことがあるなあ」という言葉が聞こえてきたりして、いくらか雑談をする。このときの僕は、宇宙人と話をする方法のことを考えていて、できれば宇宙人と話ができたほうがいいのではないかと思っていたのだった。
宇宙人とまではいかないけど、と切り出して俳優がしたねずみ講(的ビジネス)の人にしばらくつきあった話を、いわゆるエチュード的な方法で実際にシーンとして立ち上げてみる。この話を眺めていたときに僕が思ったのは、「こんな人のことは別にわからなくていいな」ということだった・・・
薄々感づいていたような気がするけど、時々こうして考えていることはなんだか道徳の授業のようだなと思う。とっても理想論、的なこと。
誰とでも話す必要はないし、耳をふさぐことは重要な技だったりする。
実際、最近している日雇いのバイトで出くわす、会話はできないし現場も回せない頭の悪いADにたいして僕はよく耳をふさぎながら(もちろん比喩だ)、淡々と現金のことを考えて労働する。その時はまったくもって「こんな時に相手の立場とか思い巡らす必要なんてない」と思っている。会う必要のない宇宙人だっているのかもしれない。

喫煙は駐車場で。車はずいぶん前に廃車してからもうない。


24日@仙台
仙台稽古初日。なかなか仙台稽古は機会が作れないので一日がかりの稽古。前半は散歩をして、後半は稽古場でワークショップ。客演の横山さんの暮らしていた空間を散歩する、ということでプランを考えてもらって、待ち合わせ場所を指定してもらう。「待ち合わせ」という語感に少しわくわくしながら、指定された場所へ。

待ち合わせ場所についたら、2人はもうすでに到着していた。


「とおくはちかい」のときにもやったけど、人とぶらぶら散歩をするのは楽しいし、知っていたはずの町の知らない部分を垣間見ることができる。

いわく「とっておきの通学路」からは、JRの貨物倉庫が両脇に見渡せる。


それから稽古場へ。前回の記事で紹介したワークショップをやってもらう。( https://yaneura-heights.blogspot.com/2018/09/blog-post.html )前回と違うこのはテーマで、「幼い頃の記憶」にした。東京稽古で一緒にやっている佐藤くんと去年の10月に横浜でやったときに扱ったテーマだったりする。
「今日朝から何してたか」というテーマとの違いは記憶の確かさだ。語る出来事を確かに経験した人が目の前にいるとき、あたかも経験したことのように語る側にはある種の緊張感がある。このとき、第三者のフォーカスは、「いかに語るか」という身振りにいく。
「幼い頃の記憶」をやっていて面白いのは、むしろ経験した当人に変化が訪れることだ。記憶は不確かで、正直語っている本人も覚束ないところがある。それがむしろ他者に語られることで、景色が補完されある確かさを手に入れていく。この確かさは信じていいものなのかは、疑う余地があるけれど。つまりに、そんな風に補完されて確からしくなってしまうことが、良いことなのかどうか。
写真の2人は、冷凍庫に何故か大量にあったジンギスカンのことについて話しているんだけど、どちらか一方の記憶を間に放り出し、なんだったか明確な答えもないまま記憶を触り合っている行為(その時間)は、とても良い時間だった。

改めて見ると、なんの写真なのかよくわからない













2018年9月4日火曜日

9月3日

今日は、前回のフィールドワークではなく、演劇のワークショップをやった。僕らがよくやっているワークショップは、端的にいうと「他人が話している話を、あたかも自分が体験したかのように話す」というワークショップで、そこに「体験をした元の人が幾つか質問をする」というルールが加えられる。必然、あたかも自分が体験したかのように話す側は嘘というか、捏造をする必要がある、捏造が破綻するときは「沈黙する」ことも許される。質問が一段落したら、話者を交代する。前作『とおくはちかい』のときにやったワークショップで、その後もかたちを少しずつ変えながらワークショップをする機会があればこすり続けている。

稽古でこれを眺めていて僕が面白いと思うのは、同じ話をしているはずなのに、話す人によって景色の立ち上がり方は違うという、演劇ではごく普通の(同じ戯曲でも演じる人が変われば変わるという)体験をわかりやすく体感できるというところだ。バスのロータリーの話や中華料理屋でお昼ご飯を食べた話、そこで想像されている風景が違えば、言葉の立ち上がり方は違う。彼らの身体やふるまいは異なる。俳優の固有のボディが見えてくるような気がする。

自宅という場で稽古をしているのもあってか、一人の話の時間は長くて、というか、雑談へと脱線していく。俳優同士が今回初対面での稽古なので、必然お互いを知るためにコミュニケーションが重ねられるというところもあると思うんだけど。せいぜい最初のエピソードは3分くらい。それから質問や、質問を含めた雑談がずーっとつづく。当然いつの間にか、自分ではない「誰か」を演じる時間が終わり、自分の話をする時間が始まる。けれども、演じる側は態度としてはその「誰か」であり続けている。そこにはただの雑談とは違うベールがあって、不思議な浮遊感がある。
この雑談を見続けていると、「今、いったい自分は何を見ているのか」と、不思議な心持ちになる。彼らはただ雑談をしているけど、自分ではない誰かを演じている、という前程で見るものは観賞しているけれど演じること自体はもう“失効”している。コレは何なんだろう、という時間ははっきりいって少し退屈だ。でもある意味退屈なこの時間を、更に見続けていると、だんだん面白くなってくる。彼らの身体の状態にチューニングが合ってくる。話が耳に馴染んできて、聞きながら何が別のことを考えたり、周りの風景を見ながらでも聞くことができるようになったり。地べたに座った時の手は、床をこすったり、膝頭を掻いたりしている、時折立ち上がったり、壁によりかかったりする、ということが今更のように発見できる。話と風景と身振りが等価になってゆく。
そこまで見るとはじめて、その人達の身体や、彼らが持っているコンテクスト、文脈が見えてくるような気がする。そのボディにどんな言葉がどんなふうに流れるのかが、想像できるようになってくる気がする。






2018年8月22日水曜日

『ここは出口ではない(仮)』がはじまりました。

『とおくはちかい』のときはなにも更新してなかった稽古日誌を今回はつけようと思っている。
『再開』の稽古日誌が結構面白かったなというか、過去考えていたことのメモとして、時々読み返すために貴重な資料になっていたりして、だからこの記録もそういうもののために、なったらいいんじゃないかという期待も込めつつ。

『再開』のときは日誌担当はその場のじゃんけんで決めてたから、これからそうなっていくかもしれない。それで、8月19日が第一回の稽古。今回の作品はちょっとややこしい作り方をしていて、僕たちいつもややこしい作り方をしているけれど、その説明から。

今回は出演者が4人いて、ウチ2人は東京に住んでいて、ウチ2人は仙台に住んでいる。(ついでにいうと、演出の中村は4月から東京に住んでいる。)
本当は全員揃って全員で稽古を進めていければいいのだけれど、劇団としてはそこまで予算がないし、出演者それぞれに忙しい中、その上でこれまでのように時間をかけて稽古することは考えづらい。なので、11月までは仙台と東京2つの地域に別れて出演者はそれぞれ稽古をし、12月に行われる合同稽古で集合する。演出の中村はどちらの稽古場にも参加する、という形式を採用している。
仙台にて6月末に滞在しおこなったC.T.T.での上演も実はその一環。(というか、その助走?)そして、おとといの稽古が、東京公演の稽古開始日だった。

『稽古』といえど、稽古場(は、中村の自宅なのですが)付近を散歩したり、雑談したりと、ゆるい感じ。
前作の稽古もそういえば村岡に仙台を案内してもらうところから始まって、この日は偶然だったけど僕が僕の地元を案内するところから始まった。

まだ仮タイトルの『ここは出口ではない(仮)』というのは、SNSやマスメディアに代表されるような表層ばかりで攻撃的な言葉や体の有り様よりも、遅効する、時間のかかるコミュニケーションのことを描きたい、その一方で、時間のかかるコミュニケーションが根本的な解決策だ、とは言えないだろう、という予感のことを思ってつけたタイトルだ。

そういえば、この作品はエロい作品にしたいと前々から思っている。
エロいというのはセクシーさのことではないし、性的ということでもない。どちらかといえば、丁寧さや、濃密さと言い換えることができるかもしれない。「もうろうをいきる」というドキュメンタリー映画を見たときに、その手つきのエロさに驚いた。

「もうろうをいきる」
https://www.youtube.com/watch?v=wXCm9k3v9P4

相手に足して体を開き、相手を受け入れようとする振る舞いは、とてもしなやかで、そしてエロい。こういう意味でのエロい作品を作りたいなと思っている。

というところで、ここから数回、東京稽古が続きます。
チケット発売は10月なので、まだまだ先。
楽しみにしてくださる方がいればこれ幸いです。
どうぞよろしくおねがいします。