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12/6~12稽古

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仙台公演が無事終了しました。ご来場いただきありがとうございました。 ・・・くらいのペースでこの日誌を更新しようと思っていたら、横浜公演も終わってしまいました。幕が空いての評判や役者の雑感などは各SNSに任せるとしまして、本番直前までのことをとりあえず書いておこうと思います。 ちなみにTwitterでの観客の反応をまとめました。 →  屋根裏ハイツ5F『ここは出口ではない』感想まとめ 12月6日  屋根裏ハイツの長台詞は回り道が多くノイジーだ。その殆どは自分の経験談を話す、いわゆるエピソードトークと呼ばれるもの。男性チームがセリフをなかなか覚えられない、というところから、この長台詞どうやって覚えている?という話になった。 例えばこんなセリフがある。Aがお酒の失敗談とかない?と聞かれて答えたエピソード。 A すごい前の話なんだけどさ、いま中央公園になっているところっていってもわかんないか、中 央公園ってところがあるんだけど、(Bにむかって)あるじゃん、(B うん)、そこはしばらく前まで公園じゃなくて空き地だったのね、一面空き地、でまだその空き地だった頃にそこで俺短期のバイトをやってたの、その空き地を使ってなんか でかいお祭りみたいなのをやろうって、すごい結構でかいバルーンとかがあったりして、仮設でいろいろステージとか組んでライブとかあって、屋台あってビール飲めて、みたいなのが夏の一ヶ月間だけ限定で展開されてたことがあったのね、結構楽しい感じの、そこのスタッフで一ヶ月働いてたんだけど、これ失敗談とかじゃないなって今話しながら思ってきたけど、そういうイベントって週末とかは、まあまあまあ、忙しいかなくらいのことなんだけどさ、正直平日はしかも平日の日中とかはクソ暇でさ、うわーって感じで、たぶんあのイベント自体は失敗だったんじゃないかって今思うと、週末は混んでたけど平日はホント全然で、そこでそのクソ暇な平日の夜にもうお客さんもこないしいいっしょみたいな感じで、店の人も半分ヤケでさ、すげえ早めに閉めちゃって、なんであんなことできたのかわかんないけど、早めに閉めて、バイトも集まってもう飲もうぜってなってさ、そのフェスみたいなところで、めちゃ飲みまくったのはすごい覚えてるな、自分たちの好きな音楽かけて、あんま、失敗談って感じじゃなかったけど(笑) 撮影:

12/1~5日稽古

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まずは5日の稽古まで。 稽古の記録というよりは、稽古場で起きたことと僕が普段考えていることが並行して書かれている読み物という感じだろうか。 12月1日 10時前にバスタ新宿を出て仙台へと向かう。お世話になるゲストハウスにチェックインし、その足で稽古場へ。事前に共有しておいた台本の印刷物を手渡し、素読み。通りが悪いところの言葉を変えたりしながら、実際に発話されるとどのような体感をするのかを確かめる。この時点で想像できないことが累々起こるほうが良いのかは正直良くわからない。前は想定外がたくさん起こったほうが良いと思っていたけれど、本読みの時点では、意外とそんなことなくて、本読みとしてはあまりノイジーじゃないほうが良いのでは?と思い始めている最近。どんな読み方をしようとも通るような言葉のほうが自由度は高いのでは。自分で書いたテキストの場合、本読みってあんまり必要ないかなと思っていた。このときもさっさと立ち稽古したほうが良いなと感じていたはずだ。 この時点では終わりまで書き上がってないので、こんな作品になるはずだ的なことを勢い話してしまう。これは本当にあんまり意味のないことだと喋ってからいつも思う。ただエモみが増すだけだ。 12月2日 前日の深夜、稽古までの時間に修正は進んだけれど、終わりまで台本はたどり着かない。通りを良くしてページ数が増えた。 村岡が語るエピソードに関して、試しに文字ではなく作家の僕からの口伝で伝えてみる、これまでのワークどおり、周囲からの質問によって書かれていた言葉の内実がはっきりしてくる。身も蓋もない言い方をすれば脚本を書く参考になった、という感じ。(ほんとに身もふたもないな) その後固まっている前半部分を舞台の上で読んでみる。最近「こう動け」という提案をした記憶が殆ど無かったけれど、最低限の動きを提案する。2人芝居とか1人がただエピソードを語るやつとかやってるから忘れていたけど、作家が戯曲で会話させている時に頭の中で動かしている(これは多分、演出家としても読み取れる範囲で)動線というものが存在して、それを実体化させる時には交通整理しないと成り立たないものもあったりする、から台本持ちながら稽古とかしたりするんですね、ということに気がつく。状況が飲み込めたほうが覚えやすいし。演劇の稽古におけるプロセスの一つ一つの意味が、今ま

10月26~28日 全体稽古

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すっかり日が空いて、本番に向けたリハーサルが始まっている。台本も完本したし、少しだけだけど憑き物が落ちたような気持ち。 けれども稽古日誌は更新していなくて、10月末の3日間は、東京在住のキャストそれから僕もあわせて仙台入りし、全体ではじめての合同稽古を行った。 まずそれらの日のことを。 10月26日 僕に別件の仕事が入っており、やや短めの稽古。稽古場の扉を開けるとキャストがすでにそろっていて、各自身体を伸ばしていた。挨拶や自己紹介はそこそこに、時間もないので早速ワークに入る。前回の仙台稽古でもやっていた、他者のエピソードをあたかも自分が経験したかのように語り、それに対してもうひとりが質問をするというワーク。2人1組になってもらい、2組を同時進行で走らせる。お題は「小さい頃の記憶」。 一度交換が終わると、次はペアを入れ替えて、今度は先程もらった話を、別の誰かに伝える。伝言ゲームの要領で、何かがずれていったり、改変されたりしていく。 1回目 A(A)⇔B(B)、C(C)⇔D(D) 2回目 A(B)⇔C(D)、B(A)⇔D(C) 3回目 A(D)⇔B(C)、C(A)⇔D(B) このように三回繰り返すと、全員が全部の話をあたかも自分の経験として持つようになる。ここまでで時間切れだったので、この話をあたかも自分がすべて経験したエピソードとして、一人の人に話してもらうことにして、この日の稽古を終える。 エピソードを語るとき、どのようにその光景を切り取るのか、実際に起きた出来事をどう捉えるのかというところに、彼らの身体感、平たく言えば個性みたいなものが見えてくるような気がする。 10月27日 この日はスタッフも揃って顔合わせ。スタッフは照明以外は前回から引き続きのチーム。 こういうときに本当は台本がばっちりあるといいのだけど。 顔合わせの後に稽古。 前日のそれぞれのエピソードの体験年齢がバラバラだったので、それを連続で話してもらいながら、自分の人生史として語ってもらった。一日空いていることでみんな話を忘れて突飛になっていくのかというと、そうではなくて、なんだか変な角が取れて丸くなっていくような、ちょっと普遍化した話になるような体感を持つ。持ちネタといえば持ちネタだし、だんだんみんな中身がわかってき

9/12東京稽古、24仙台稽古

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すっかり更新が遅くなってしまった。このままだと先が思いやられる。 二回分の稽古記録を更新する。 12日@東京中村家 東京稽古の二回目は、散歩をしたりはせずに稽古をしてもらった。二回目だっけか、三回目のような気もする。だらだらと話をするという行為は変わらないんだけど、今回はトークテーマにお題が与えられた。「宇宙人に遭遇したとことがあるか?」というテーマ。 宇宙人というのはもちろん比喩で、同じ言語を話していても一向に通じ合わない人に会ったことがあるか?という意味で問うた。 考えている2人から、「外国人クラスには会ったことがあるなあ」という言葉が聞こえてきたりして、いくらか雑談をする。このときの僕は、宇宙人と話をする方法のことを考えていて、できれば宇宙人と話ができたほうがいいのではないかと思っていたのだった。 宇宙人とまではいかないけど、と切り出して俳優がしたねずみ講(的ビジネス)の人にしばらくつきあった話を、いわゆるエチュード的な方法で実際にシーンとして立ち上げてみる。この話を眺めていたときに僕が思ったのは、「こんな人のことは別にわからなくていいな」ということだった・・・ 薄々感づいていたような気がするけど、時々こうして考えていることはなんだか道徳の授業のようだなと思う。とっても理想論、的なこと。 誰とでも話す必要はないし、耳をふさぐことは重要な技だったりする。 実際、最近している日雇いのバイトで出くわす、会話はできないし現場も回せない頭の悪いADにたいして僕はよく耳をふさぎながら(もちろん比喩だ)、淡々と現金のことを考えて労働する。その時はまったくもって「こんな時に相手の立場とか思い巡らす必要なんてない」と思っている。会う必要のない宇宙人だっているのかもしれない。 喫煙は駐車場で。車はずいぶん前に廃車してからもうない。 24日@仙台 仙台稽古初日。なかなか仙台稽古は機会が作れないので一日がかりの稽古。前半は散歩をして、後半は稽古場でワークショップ。客演の横山さんの暮らしていた空間を散歩する、ということでプランを考えてもらって、待ち合わせ場所を指定してもらう。「待ち合わせ」という語感に少しわくわくしながら、指定された場所へ。 待ち合わせ場所についたら、2人はもうすでに到着していた。 「とおくはちかい」のときにもやった

9月3日

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今日は、前回のフィールドワークではなく、演劇のワークショップをやった。僕らがよくやっているワークショップは、端的にいうと「他人が話している話を、あたかも自分が体験したかのように話す」というワークショップで、そこに「体験をした元の人が幾つか質問をする」というルールが加えられる。必然、あたかも自分が体験したかのように話す側は嘘というか、捏造をする必要がある、捏造が破綻するときは「沈黙する」ことも許される。質問が一段落したら、話者を交代する。前作『とおくはちかい』のときにやったワークショップで、その後もかたちを少しずつ変えながらワークショップをする機会があればこすり続けている。 稽古でこれを眺めていて僕が面白いと思うのは、同じ話をしているはずなのに、話す人によって景色の立ち上がり方は違うという、演劇ではごく普通の(同じ戯曲でも演じる人が変われば変わるという)体験をわかりやすく体感できるというところだ。バスのロータリーの話や中華料理屋でお昼ご飯を食べた話、そこで想像されている風景が違えば、言葉の立ち上がり方は違う。彼らの身体やふるまいは異なる。俳優の固有のボディが見えてくるような気がする。 自宅という場で稽古をしているのもあってか、一人の話の時間は長くて、というか、雑談へと脱線していく。俳優同士が今回初対面での稽古なので、必然お互いを知るためにコミュニケーションが重ねられるというところもあると思うんだけど。せいぜい最初のエピソードは3分くらい。それから質問や、質問を含めた雑談がずーっとつづく。当然いつの間にか、自分ではない「誰か」を演じる時間が終わり、自分の話をする時間が始まる。けれども、演じる側は態度としてはその「誰か」であり続けている。そこにはただの雑談とは違うベールがあって、不思議な浮遊感がある。 この雑談を見続けていると、「今、いったい自分は何を見ているのか」と、不思議な心持ちになる。彼らはただ雑談をしているけど、自分ではない誰かを演じている、という前程で見るものは観賞しているけれど演じること自体はもう“失効”している。コレは何なんだろう、という時間ははっきりいって少し退屈だ。でもある意味退屈なこの時間を、更に見続けていると、だんだん面白くなってくる。彼らの身体の状態にチューニングが合ってくる。話が耳に馴染んできて、聞きながら何が別のことを考えたり、周りの

『ここは出口ではない(仮)』がはじまりました。

『とおくはちかい』のときはなにも更新してなかった稽古日誌を今回はつけようと思っている。 『再開』の稽古日誌が結構面白かったなというか、過去考えていたことのメモとして、時々読み返すために貴重な資料になっていたりして、だからこの記録もそういうもののために、なったらいいんじゃないかという期待も込めつつ。 『再開』のときは日誌担当はその場のじゃんけんで決めてたから、これからそうなっていくかもしれない。それで、8月19日が第一回の稽古。今回の作品はちょっとややこしい作り方をしていて、僕たちいつもややこしい作り方をしているけれど、その説明から。 今回は出演者が4人いて、ウチ2人は東京に住んでいて、ウチ2人は仙台に住んでいる。(ついでにいうと、演出の中村は4月から東京に住んでいる。) 本当は全員揃って全員で稽古を進めていければいいのだけれど、劇団としてはそこまで予算がないし、出演者それぞれに忙しい中、その上でこれまでのように時間をかけて稽古することは考えづらい。なので、11月までは仙台と東京2つの地域に別れて出演者はそれぞれ稽古をし、12月に行われる合同稽古で集合する。演出の中村はどちらの稽古場にも参加する、という形式を採用している。 仙台にて6月末に滞在しおこなったC.T.T.での上演も実はその一環。(というか、その助走?)そして、おとといの稽古が、東京公演の稽古開始日だった。 『稽古』といえど、稽古場(は、中村の自宅なのですが)付近を散歩したり、雑談したりと、ゆるい感じ。 前作の稽古もそういえば村岡に仙台を案内してもらうところから始まって、この日は偶然だったけど僕が僕の地元を案内するところから始まった。 まだ仮タイトルの『ここは出口ではない(仮)』というのは、SNSやマスメディアに代表されるような表層ばかりで攻撃的な言葉や体の有り様よりも、遅効する、時間のかかるコミュニケーションのことを描きたい、その一方で、時間のかかるコミュニケーションが根本的な解決策だ、とは言えないだろう、という予感のことを思ってつけたタイトルだ。 そういえば、この作品はエロい作品にしたいと前々から思っている。 エロいというのはセクシーさのことではないし、性的ということでもない。どちらかといえば、丁寧さや、濃密さと言い換えることができるかもしれない。「