2018年12月27日木曜日

12/6~12稽古

仙台公演が無事終了しました。ご来場いただきありがとうございました。
・・・くらいのペースでこの日誌を更新しようと思っていたら、横浜公演も終わってしまいました。幕が空いての評判や役者の雑感などは各SNSに任せるとしまして、本番直前までのことをとりあえず書いておこうと思います。
ちなみにTwitterでの観客の反応をまとめました。
→ 屋根裏ハイツ5F『ここは出口ではない』感想まとめ


12月6日 
屋根裏ハイツの長台詞は回り道が多くノイジーだ。その殆どは自分の経験談を話す、いわゆるエピソードトークと呼ばれるもの。男性チームがセリフをなかなか覚えられない、というところから、この長台詞どうやって覚えている?という話になった。
例えばこんなセリフがある。Aがお酒の失敗談とかない?と聞かれて答えたエピソード。

A すごい前の話なんだけどさ、いま中央公園になっているところっていってもわかんないか、中央公園ってところがあるんだけど、(Bにむかって)あるじゃん、(B うん)、そこはしばらく前まで公園じゃなくて空き地だったのね、一面空き地、でまだその空き地だった頃にそこで俺短期のバイトをやってたの、その空き地を使ってなんかでかいお祭りみたいなのをやろうって、すごい結構でかいバルーンとかがあったりして、仮設でいろいろステージとか組んでライブとかあって、屋台あってビール飲めて、みたいなのが夏の一ヶ月間だけ限定で展開されてたことがあったのね、結構楽しい感じの、そこのスタッフで一ヶ月働いてたんだけど、これ失敗談とかじゃないなって今話しながら思ってきたけど、そういうイベントって週末とかは、まあまあまあ、忙しいかなくらいのことなんだけどさ、正直平日はしかも平日の日中とかはクソ暇でさ、うわーって感じで、たぶんあのイベント自体は失敗だったんじゃないかって今思うと、週末は混んでたけど平日はホント全然で、そこでそのクソ暇な平日の夜にもうお客さんもこないしいいっしょみたいな感じで、店の人も半分ヤケでさ、すげえ早めに閉めちゃって、なんであんなことできたのかわかんないけど、早めに閉めて、バイトも集まってもう飲もうぜってなってさ、そのフェスみたいなところで、めちゃ飲みまくったのはすごい覚えてるな、自分たちの好きな音楽かけて、あんま、失敗談って感じじゃなかったけど(笑)


撮影:岩渕隆


人が自分のエピソードを語る時、話す前に、その話の終わりまでの道筋が完全に決まっていることはあまりない。とりわけ古い記憶になればうっすらとしたイメージを、ここでいうなら「平日の夜に勝手に店閉めてすげえ飲んだ」という体験を伝えるためにその場で話を組み立てていく。相手の反応によって、その場所になにがあるのかという外観の話を追加していったり、あげく要求されたエピソードではないということに気がついてしまったりする。話している内容を人は思ったようには話せないし、回り道やずれを繰り返しながら結果的に話してしまった、というのが日常会話の実際のところである。
上演の度にこの状態を作り上げるには、ただセリフを順番に発語するようではうまくない。稽古場ではセリフそのものを覚えるよりも、そのエピソードのイメージを作って覚えたほうがやりやすいというように話していた。僕はこの時、前述の日常会話の会話の起こり方のことや、自分自身がエピソードを話す時のことを想像しながら話していた。(僕自身はこうした長台詞を覚えたことがないので…)
けれども彼らいわく、「イメージを先に作ると自分の喋りたい順番で話が出てくるから、
それとこのセリフの順番との間にノッキングが起こってしまいむしろ話しづらい」。なるほど、確かに自分のエピソードを話すとき特にその環境のことや風景のことを話す時はその順番はあまり重要ではない。むしろ聞き手に応じたり、あるいは思いついた順番に話していく。そのことと、セリフという語順が決まっている指示書は仲良くない。そんなことも気が付かずにいたのだから、演出とはなんと勝手な立場だろうか。(覚えるの大変だとは思ってたけど)
じゃあどうするか。劇団員の村岡は「文節ごとにイメージしてそれを切りかえると覚えやすいかもしれない」と言う。
イメージと言う言葉からは、なぜか画像を思い浮かべがちだ(これは異論あるかもしれない)が、実は人のイメージは固定画像ではない。固定的であってもそこには時間の経過があり、音や匂いがある。もしイメージに拡張子があるとするならば、それは「.png」や「.jpeg」でもないし、ましてや「.m4a」でもなくて、あらゆる情報を包含した「.イメージ」としか言いようのないもので、それを持って本来人は話している。テキストからもそういった複合体のイメージを受け取って、それをもって話さなくてはいけない。




12月7、8日
1日稽古。ほとんど台本も離れて、動きながらの稽古をやっている。後一週間で本番ともなれば当然なんだけど。
長い時間を費やしたのは後半45分間の4人でしゃべるシーン。
テキストが身体に対して動きを要求することがある一方で、どのような体勢・状態であってもテキストの内容というものは成立するものでなくてはならないとこの稽古を通じて感じる。リア王がどのように演出されようともリア王たれるように、自分で書いたテキストもどのように料理してもそのテキストたらなければならない。これは言葉の意味を強くしたいとか、物語にこだわりたいとかそういうことではない。単純にそのほうがテキストとしての強度が高い、ということに過ぎない。そのために不要な部分は削るし、整理する。俳優の身体を通して言葉を聞くことでそれが俳優の腑に落ちてくる、そうすると聞く側の耳にも入ってくるようになる。入ってきやすいように言葉を変えてみる。こうした「腑に落とす」作業をねちねちとやっていくと、上演の輪郭が浮かび上がってくる。

ここらへんおぼろげな記憶なので曜日が確かじゃないけれど、日常の過ごし方の話もした。確か横山さんが稽古にいなかった日で、3人で横山さん登場前のシーンをやってたときのこと。小道具をどれくらい用意するかを迷っていた。どれくらい具体性のある空間にするのか、どれくらい抽象的な空間にするのか。渡している台本には村岡が携帯で通話するシーンがあるけれど、そこで僕は具体的にスマホを持って通話してほしいと思った。
そしたら佐藤くんが「僕らは持たなくていいのか?」と。「こんなに沈黙があったら、もし実際の僕だったら絶対スマホいじっちゃいます」宮川さんや村岡も同意する。休憩時間中に確かに僕も含めみんなスマホをいじっているし(最近一日どれくらいの時間スマホを見ているのかが表示されるようになったけど、僕は6時間くらい眺めているらしい…)、本当にスマホは僕たちの身体の一部だ。そういえば舞台でめちゃくちゃ普通にスマホ使う芝居ってあんまり見たことなくない?でも僕ら電話以外にゲームしたりメール見たり色々スマホ超使ってるよね、じゃあまあ使ってもいっか、でも日常の僕らくらい使っちゃうと物語の内容が入ってくるどころじゃなくなるので普段より程々にしようね、という話で、3人はスマホを持つことになった。


12月9日 
この稽古日誌的なものを読んでいても進行の度合いはわからないかもしれないけれど、ほぼ毎日一日稽古だから、稽古の進行速度は異様に速い。俳優の疲労も半端ない。10日が休みだから、無理矢理にでも通すことにする。
当然だけど通してみて初めて分かることは多い。腑に落とす作業をネチネチやっていたひたすら後半45分の面白さが際立つ。
見ていて気がついたこととしては、人数が増えていくごとに部屋での過ごし方が変わること。2人のときは自分の部屋をどのようにでも使えるけれど、人が増えれば増えるほど姿勢は正されてゆく。寝転がっていた身体が、ソファに座る様になり、挨拶をする時は正座をする。その体の質感の違いみたいなものは、面白がれるかなと思えた。
この日までずっと場転(演じている場所が変わること。)をやろうと思っていたんだけれど、それが全然効果しないどころかかえって害悪なのに気がついて該当シーンをバッサリカットすることを決める。些末な話しが淡々と積み重なっていく、その積み重なりを示すためには、それらがある部屋のなかで起こり続けていることを示すことのほうが重要だ、と判断する。

衣装の候補を打ち合わせて、後日買い出しに行くことを決める。

最終的な衣装はこうなりました


12月11・12日 
稽古休みを挟んで二日間の稽古。村岡と一緒に衣装探しもした。両日とも午後に練習して、夜に通すという流れ。
記憶が正しければ、がっつりカットして場転をやめた死者が登場するシーンをいくらかやったはずだ。元々は別の場所、ロータリーでの出来事を部屋の中でやってみる。ロータリーとはいえ、その場を説明する言葉が出てくるわけでもないこともあってか部屋で会話されても違和感なく見られる。ぜんぜん違う場所で起きていた停電が、一挙に部屋の出来事っぽくなるというか、後半の状況とリンクしだすみたいな偶然も起きた。
あんまりにも細かいセリフの切った張ったをやりそうになって、途中でやめる。それは作家の領分で、稽古の時間にあんまりやりすぎないほうが良いみたいな当たり前のことを思い出す。そもそも会話は100%論理でできていないから、理屈では通らなくても口に出すみたいなことができる。
カットも方針転換も功を奏し、だいぶスッキリした印象。時間も88分になった。
空調の音がうるさいとか外が賑やかだとか、それだけで作品に入れたり入れなかったりする。多分舞台にハエが飛んでいたらそれに負ける。ともかくこの作品はそういう質の作品だ。だから果たしてこの作品がちゃんと客を引き付けられ続けるのかというのが不安なまま実は初日を迎えることになる。(これは多分僕だけだけど)

このタイミングじゃなくて本番が始まってからいろいろ気がつくことがある。あと一つ、舞台の重心の話をしてこの記録のような読み物を閉じようと思う。多分長くなるのでそれは別立てで書くことにします。年明けまでにはあげよう・・・


2018年12月11日火曜日

12/1~5日稽古

まずは5日の稽古まで。
稽古の記録というよりは、稽古場で起きたことと僕が普段考えていることが並行して書かれている読み物という感じだろうか。

12月1日
10時前にバスタ新宿を出て仙台へと向かう。お世話になるゲストハウスにチェックインし、その足で稽古場へ。事前に共有しておいた台本の印刷物を手渡し、素読み。通りが悪いところの言葉を変えたりしながら、実際に発話されるとどのような体感をするのかを確かめる。この時点で想像できないことが累々起こるほうが良いのかは正直良くわからない。前は想定外がたくさん起こったほうが良いと思っていたけれど、本読みの時点では、意外とそんなことなくて、本読みとしてはあまりノイジーじゃないほうが良いのでは?と思い始めている最近。どんな読み方をしようとも通るような言葉のほうが自由度は高いのでは。自分で書いたテキストの場合、本読みってあんまり必要ないかなと思っていた。このときもさっさと立ち稽古したほうが良いなと感じていたはずだ。
この時点では終わりまで書き上がってないので、こんな作品になるはずだ的なことを勢い話してしまう。これは本当にあんまり意味のないことだと喋ってからいつも思う。ただエモみが増すだけだ。



12月2日
前日の深夜、稽古までの時間に修正は進んだけれど、終わりまで台本はたどり着かない。通りを良くしてページ数が増えた。
村岡が語るエピソードに関して、試しに文字ではなく作家の僕からの口伝で伝えてみる、これまでのワークどおり、周囲からの質問によって書かれていた言葉の内実がはっきりしてくる。身も蓋もない言い方をすれば脚本を書く参考になった、という感じ。(ほんとに身もふたもないな)
その後固まっている前半部分を舞台の上で読んでみる。最近「こう動け」という提案をした記憶が殆ど無かったけれど、最低限の動きを提案する。2人芝居とか1人がただエピソードを語るやつとかやってるから忘れていたけど、作家が戯曲で会話させている時に頭の中で動かしている(これは多分、演出家としても読み取れる範囲で)動線というものが存在して、それを実体化させる時には交通整理しないと成り立たないものもあったりする、から台本持ちながら稽古とかしたりするんですね、ということに気がつく。状況が飲み込めたほうが覚えやすいし。演劇の稽古におけるプロセスの一つ一つの意味が、今まであんまりわかっていなかったことが、少し合点がいったりする。
稽古後、ご飯食べながら一緒にゲストハウスに泊まっている人と作品の話をしたら見に来てくれると予約をもらった。日本語教育を学ぶ学生の方たち。ありがたいことだ。



12月3日 
この日は稽古休み。

12月4日
この日は昼夜稽古。台本が書き上がる。少し憑き物が落ちた気持ちになる。このペース感をもっとちゃんとつかめるといいのだけれど。書き上がったものを手渡し、最後まで通しで読む。作品の質感がはっきりする。
ダラダラとした会話劇、日常のテンションにとっても近い言葉のやり取りを、どうしたら常にスリルのある生感を保っていられるのか?と考えるときに、基本は舞台にいる、そこにいられさえすればいいのではと思う。テキストを読むことに引っ張られるのではなく、テキストを遂行するためだけに舞台に立つのではなく、そこにあること。
そのためにはいろいろ手を尽くさなくてはいけないのだけれど。
劇的な物語ではなく、そこにあること、そこで起こることだけを淡々とカメラに収めるように舞台を展開できないか、そんなことを考えていると、結局部屋芝居になってしまう。今回も部屋芝居だ。



12月5日
役作りってなんだろうか?と思う。俳優にも様々あって、キャラクターの持つストーリーやバックグラウンドをセリフの機微から想像して役を作っていくという人もいる。全然そういう作り込みはしないという人もいる。僕自身はあんまりそういうことに興味がない、というかよくわからない、ので例えばそういう種類の話をされると困ってしまう。だいたいお茶を濁しがちだ。
例えば、このキャラクターは図太い性格だ、みたいなことを俳優に伝えたとする。
その時に、テキスト上に書かれているさして図太さを必要としない行動の部分にまでその図太さが及んでしまうことがある。でも現実そんなことはないわけで、普段から図太い人はそもそもが図太いので、そのなかで喜怒哀楽とか、心の揺れとか普通にあって、それらは機微として現れてしまうものだ。機微より全体の図太さが勝ってしまうなんてことはない。空の色は青だからって全部絵の具の青色に塗るんですか?みたいなことを考えてもらうのがわかりやすいだろうか。ちゃんと濃淡がある。
稽古場で横山さんにそういう類のことを聞かれて、応答する。案の定というかやっぱりキャラクターが場にいることに勝ってしまっているような気がする。ところが、その後横山さんがでてくる同じシーンを三回くらい繰り返している内に(繰り返したということはもちろんその間に演出とのやり取りがあったのだが)、最初全面的に青かったキャンバス(キャラクター)に濃淡がだんだんと現れてきたのだ。身体や言葉に生感・質感が出てくる。演出の言っている「図太さ」(別にこの日この登場人物は図太いキャラです、みたいなことは言ってなくてもちろん比喩だ。)は、どのくらい図太いのか、図太くないのかというのは俳優自身にはわからない。そのためにまずはキャンバスを全面青で塗ってみて、ここは青くなくていいですね、雲増やしましょうかとか、そういうやりとりを重ねて、濃淡を付けていく作業。最終的に空の色が、どう考えたって緑が強くなってたって良いのだが、要はどこを出発点とするかの違いなのだなと思った。


2018年12月5日水曜日

10月26~28日 全体稽古

すっかり日が空いて、本番に向けたリハーサルが始まっている。台本も完本したし、少しだけだけど憑き物が落ちたような気持ち。
けれども稽古日誌は更新していなくて、10月末の3日間は、東京在住のキャストそれから僕もあわせて仙台入りし、全体ではじめての合同稽古を行った。
まずそれらの日のことを。

10月26日
僕に別件の仕事が入っており、やや短めの稽古。稽古場の扉を開けるとキャストがすでにそろっていて、各自身体を伸ばしていた。挨拶や自己紹介はそこそこに、時間もないので早速ワークに入る。前回の仙台稽古でもやっていた、他者のエピソードをあたかも自分が経験したかのように語り、それに対してもうひとりが質問をするというワーク。2人1組になってもらい、2組を同時進行で走らせる。お題は「小さい頃の記憶」。
一度交換が終わると、次はペアを入れ替えて、今度は先程もらった話を、別の誰かに伝える。伝言ゲームの要領で、何かがずれていったり、改変されたりしていく。






1回目
A(A)⇔B(B)、C(C)⇔D(D)

2回目
A(B)⇔C(D)、B(A)⇔D(C)

3回目
A(D)⇔B(C)、C(A)⇔D(B)



このように三回繰り返すと、全員が全部の話をあたかも自分の経験として持つようになる。ここまでで時間切れだったので、この話をあたかも自分がすべて経験したエピソードとして、一人の人に話してもらうことにして、この日の稽古を終える。
エピソードを語るとき、どのようにその光景を切り取るのか、実際に起きた出来事をどう捉えるのかというところに、彼らの身体感、平たく言えば個性みたいなものが見えてくるような気がする。





10月27日
この日はスタッフも揃って顔合わせ。スタッフは照明以外は前回から引き続きのチーム。
こういうときに本当は台本がばっちりあるといいのだけど。
顔合わせの後に稽古。
前日のそれぞれのエピソードの体験年齢がバラバラだったので、それを連続で話してもらいながら、自分の人生史として語ってもらった。一日空いていることでみんな話を忘れて突飛になっていくのかというと、そうではなくて、なんだか変な角が取れて丸くなっていくような、ちょっと普遍化した話になるような体感を持つ。持ちネタといえば持ちネタだし、だんだんみんな中身がわかってきたので、裏切りがなく退屈だということも当然ある。話し方を変えてもらったり、誰に向かって話すかを変えたりしながら、言葉を重ねていく作業を重ねる。
「とおくはちかい」のように2人で話すとあまりパターンがないけれど、4人だと関係性は様々作れる。1対3のレクチャースタイルとか、それでいて一人は全然聞いてないとか、4人車座でだらだらとおしゃべりのような構図を作ったりだとか。
今回も舞台美術を担当する大沢さんが「会話が場に積もっていくその積もり方が『とおくはちかい』のときとは全然違うというのは、当たり前なんだけど新鮮な体感だった」と言っていた。みんなしゃべってるだけなのに、なにか一枚薄い層のようなものが重なって、その場の見え方が変わったりしていく。

宅飲みみたいだ


多人数の会話というのは、2人での会話と3人での会話の組み合わせで成り立っているというような論文をどこかで昔読んだことがあったけれど、4人が積もらせていく言葉は、やっぱりその人数でしか出しようのない遠慮や駆け引きがあるのでは、と思う。


10月28日
この日は村岡がいなくて、他3人での稽古。
語りの時間から変わってやってみたのは、「ある状況を過ごす」ということ。
ファミレスやコンビニなどの生活空間を設定し、そこに身を置き振る舞ってもらう。そこに劇的な展開は起こらなくて良くて、ただ日常の時間と空間を切り取って、稽古場という異なる場所に置いてみる。
いわゆる劇の時間は往々にして日常の時間より速く、その速さにしばしばついていけない僕はこうした状況の時間を眺めているときのほうがよっぽどそこに劇を見出すことができる気がしている。質感でいうと、ドキュメンタリー映画に近い。

演劇(に限らずですが)を観る人、つまり観客の視点にたつと、物語る言葉を「聞く」時間と、ある状況におかれた人を「見る」時間というのは異なる。
前者はその語られる言葉の内容から頭の中でイメージを構築していき、後者はその人々を見ることで、その関係性の変化であるとか、そこで過ごす人々の状況だとかを想像していく、という作業を観客は見ながら無/意識的にしている。前者は落語、後者は例えばファミレスで向かいの席のカップルの会話がどうしても聞こえてしまう時、とかがわかり易いだろうか。
この2日間のワークショップでは語る時間を重ねていたけれど、そのようにして物語る人を状況の時間に置くことで、語りの時間と状況の時間をヌルヌルと(観客が)行き来することはできないだろうか?しかも、日常の身体を保った上で。
いいかえれば、ある状況下で過ごしている人々の言葉を聞いていたら、その最中いつのまにか提示されている状況とは異なる語りの世界に導かれている、というような体験をすることはできないだろうか?イメージの世界と、現実の世界を自由に行き来することができるとするならば、そのほうが、わたしたちの「日常」により近いのではないだろうか?

話がそれてしまったけど、そこへ行きつくまでの材料を示せたかなとは思う3日間だった。では引き続き12月の稽古日誌へ。