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言葉と身体

稽古はめっぽう苦戦が続いている。 言い訳をすればテキストの執筆に割く時間があまりにもないこととか、あるいはそれに関連することに割ける時間をもっと別のことに割いてしまう、割かざるを得ない現状があるからだとか、考え付くわけだが、とにもかくにもテキストのジャンプがまだ弱い。 身体と言葉を平等に扱う上ということが、例えば舞台を見るときに、観客が役者が言う言葉や音声や、お互いの関係とかではなく、小さな右手の動きだとか、そういったことを見ることである種全く異なる余計な想像をしてしまう、というようなことであることはなんとなく理解できたのだが、ではそれに有効なテキストとは何か? テキストとは俳優を拘束しかつ俳優を自由にするものである。この拘束するための道具が俳優に与えられていないのかもしれない。 言語の遊びという本を読んでいると、言葉はゲームであるという言及が見受けられ、あ、それダンスに関する書籍でも読んだなあと思うのであった。 何かヒントになればいいが。

覚書

すっかり夏風邪をひいた。喉が痛いので長引きそうだ。今週は静養と執筆に努め(そう上手くもいかないが)色々出かけるのを控えることにする。 言葉の暴力というのはなんだろうか? 一つは直接性である。 観客に向かって喋る方が、間違いなく俳優同士のやりとりよりも、観客に緊張をもたらすし、意味がそのまま、伝わる。観客は基本的には応答を許されてないから、聞きたくない言葉には耳を塞ぐしかない。その不自由さを逆手取る観客に向かう話し言葉には直接性がある。これは独白ではない。 おそらくもう一つは凝縮具合である。その言葉を聞いた時に言葉の描く風景の緻密さはどうであるかということ。観客は聞いた時にその言葉を頭の中で爆発させる。 人から又聞いた話を受け取った時に、その話し方いかんで映像の解像度は決まってくる。 明日は実際に舞台で使う映像の話ができるだろう。楽しみだ。。