12/1~5日稽古

まずは5日の稽古まで。
稽古の記録というよりは、稽古場で起きたことと僕が普段考えていることが並行して書かれている読み物という感じだろうか。

12月1日
10時前にバスタ新宿を出て仙台へと向かう。お世話になるゲストハウスにチェックインし、その足で稽古場へ。事前に共有しておいた台本の印刷物を手渡し、素読み。通りが悪いところの言葉を変えたりしながら、実際に発話されるとどのような体感をするのかを確かめる。この時点で想像できないことが累々起こるほうが良いのかは正直良くわからない。前は想定外がたくさん起こったほうが良いと思っていたけれど、本読みの時点では、意外とそんなことなくて、本読みとしてはあまりノイジーじゃないほうが良いのでは?と思い始めている最近。どんな読み方をしようとも通るような言葉のほうが自由度は高いのでは。自分で書いたテキストの場合、本読みってあんまり必要ないかなと思っていた。このときもさっさと立ち稽古したほうが良いなと感じていたはずだ。
この時点では終わりまで書き上がってないので、こんな作品になるはずだ的なことを勢い話してしまう。これは本当にあんまり意味のないことだと喋ってからいつも思う。ただエモみが増すだけだ。



12月2日
前日の深夜、稽古までの時間に修正は進んだけれど、終わりまで台本はたどり着かない。通りを良くしてページ数が増えた。
村岡が語るエピソードに関して、試しに文字ではなく作家の僕からの口伝で伝えてみる、これまでのワークどおり、周囲からの質問によって書かれていた言葉の内実がはっきりしてくる。身も蓋もない言い方をすれば脚本を書く参考になった、という感じ。(ほんとに身もふたもないな)
その後固まっている前半部分を舞台の上で読んでみる。最近「こう動け」という提案をした記憶が殆ど無かったけれど、最低限の動きを提案する。2人芝居とか1人がただエピソードを語るやつとかやってるから忘れていたけど、作家が戯曲で会話させている時に頭の中で動かしている(これは多分、演出家としても読み取れる範囲で)動線というものが存在して、それを実体化させる時には交通整理しないと成り立たないものもあったりする、から台本持ちながら稽古とかしたりするんですね、ということに気がつく。状況が飲み込めたほうが覚えやすいし。演劇の稽古におけるプロセスの一つ一つの意味が、今まであんまりわかっていなかったことが、少し合点がいったりする。
稽古後、ご飯食べながら一緒にゲストハウスに泊まっている人と作品の話をしたら見に来てくれると予約をもらった。日本語教育を学ぶ学生の方たち。ありがたいことだ。



12月3日 
この日は稽古休み。

12月4日
この日は昼夜稽古。台本が書き上がる。少し憑き物が落ちた気持ちになる。このペース感をもっとちゃんとつかめるといいのだけれど。書き上がったものを手渡し、最後まで通しで読む。作品の質感がはっきりする。
ダラダラとした会話劇、日常のテンションにとっても近い言葉のやり取りを、どうしたら常にスリルのある生感を保っていられるのか?と考えるときに、基本は舞台にいる、そこにいられさえすればいいのではと思う。テキストを読むことに引っ張られるのではなく、テキストを遂行するためだけに舞台に立つのではなく、そこにあること。
そのためにはいろいろ手を尽くさなくてはいけないのだけれど。
劇的な物語ではなく、そこにあること、そこで起こることだけを淡々とカメラに収めるように舞台を展開できないか、そんなことを考えていると、結局部屋芝居になってしまう。今回も部屋芝居だ。



12月5日
役作りってなんだろうか?と思う。俳優にも様々あって、キャラクターの持つストーリーやバックグラウンドをセリフの機微から想像して役を作っていくという人もいる。全然そういう作り込みはしないという人もいる。僕自身はあんまりそういうことに興味がない、というかよくわからない、ので例えばそういう種類の話をされると困ってしまう。だいたいお茶を濁しがちだ。
例えば、このキャラクターは図太い性格だ、みたいなことを俳優に伝えたとする。
その時に、テキスト上に書かれているさして図太さを必要としない行動の部分にまでその図太さが及んでしまうことがある。でも現実そんなことはないわけで、普段から図太い人はそもそもが図太いので、そのなかで喜怒哀楽とか、心の揺れとか普通にあって、それらは機微として現れてしまうものだ。機微より全体の図太さが勝ってしまうなんてことはない。空の色は青だからって全部絵の具の青色に塗るんですか?みたいなことを考えてもらうのがわかりやすいだろうか。ちゃんと濃淡がある。
稽古場で横山さんにそういう類のことを聞かれて、応答する。案の定というかやっぱりキャラクターが場にいることに勝ってしまっているような気がする。ところが、その後横山さんがでてくる同じシーンを三回くらい繰り返している内に(繰り返したということはもちろんその間に演出とのやり取りがあったのだが)、最初全面的に青かったキャンバス(キャラクター)に濃淡がだんだんと現れてきたのだ。身体や言葉に生感・質感が出てくる。演出の言っている「図太さ」(別にこの日この登場人物は図太いキャラです、みたいなことは言ってなくてもちろん比喩だ。)は、どのくらい図太いのか、図太くないのかというのは俳優自身にはわからない。そのためにまずはキャンバスを全面青で塗ってみて、ここは青くなくていいですね、雲増やしましょうかとか、そういうやりとりを重ねて、濃淡を付けていく作業。最終的に空の色が、どう考えたって緑が強くなってたって良いのだが、要はどこを出発点とするかの違いなのだなと思った。


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