9月3日

今日は、前回のフィールドワークではなく、演劇のワークショップをやった。僕らがよくやっているワークショップは、端的にいうと「他人が話している話を、あたかも自分が体験したかのように話す」というワークショップで、そこに「体験をした元の人が幾つか質問をする」というルールが加えられる。必然、あたかも自分が体験したかのように話す側は嘘というか、捏造をする必要がある、捏造が破綻するときは「沈黙する」ことも許される。質問が一段落したら、話者を交代する。前作『とおくはちかい』のときにやったワークショップで、その後もかたちを少しずつ変えながらワークショップをする機会があればこすり続けている。

稽古でこれを眺めていて僕が面白いと思うのは、同じ話をしているはずなのに、話す人によって景色の立ち上がり方は違うという、演劇ではごく普通の(同じ戯曲でも演じる人が変われば変わるという)体験をわかりやすく体感できるというところだ。バスのロータリーの話や中華料理屋でお昼ご飯を食べた話、そこで想像されている風景が違えば、言葉の立ち上がり方は違う。彼らの身体やふるまいは異なる。俳優の固有のボディが見えてくるような気がする。

自宅という場で稽古をしているのもあってか、一人の話の時間は長くて、というか、雑談へと脱線していく。俳優同士が今回初対面での稽古なので、必然お互いを知るためにコミュニケーションが重ねられるというところもあると思うんだけど。せいぜい最初のエピソードは3分くらい。それから質問や、質問を含めた雑談がずーっとつづく。当然いつの間にか、自分ではない「誰か」を演じる時間が終わり、自分の話をする時間が始まる。けれども、演じる側は態度としてはその「誰か」であり続けている。そこにはただの雑談とは違うベールがあって、不思議な浮遊感がある。
この雑談を見続けていると、「今、いったい自分は何を見ているのか」と、不思議な心持ちになる。彼らはただ雑談をしているけど、自分ではない誰かを演じている、という前程で見るものは観賞しているけれど演じること自体はもう“失効”している。コレは何なんだろう、という時間ははっきりいって少し退屈だ。でもある意味退屈なこの時間を、更に見続けていると、だんだん面白くなってくる。彼らの身体の状態にチューニングが合ってくる。話が耳に馴染んできて、聞きながら何が別のことを考えたり、周りの風景を見ながらでも聞くことができるようになったり。地べたに座った時の手は、床をこすったり、膝頭を掻いたりしている、時折立ち上がったり、壁によりかかったりする、ということが今更のように発見できる。話と風景と身振りが等価になってゆく。
そこまで見るとはじめて、その人達の身体や、彼らが持っているコンテクスト、文脈が見えてくるような気がする。そのボディにどんな言葉がどんなふうに流れるのかが、想像できるようになってくる気がする。






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