舞台を流れる時間についてのこと

あけましておめでとうございます。中村大地です。
あけましてというのももうだいぶ日が経ってしまったか。さて、これが最後の稽古日誌です。今回の作品は予想以上に評判が良かった。評判がいいというか、客席が普段の上演よりも集中して作品に付き合ってくれている、と思える上演が多くて、それはとても良かった。徳永さんをはじめ、様々な方に声の小ささについて言及していただいたので、そのことについて書きます。









こんなふうに書いていただいて甚だ恐縮というか、この翌日俳優にめちゃくちゃからかわれたわけだが(笑)、だんだん声が上がっていくということや、最初の頻繁な出入りはそこまでめちゃくちゃ意識立てて演出がやっているわけではない。むしろ落ち着きないのは面白いかなー、くらいの感じ…恥ずかしながら。
自覚的にやっているということとしては

・脚本の構造上人が増えていくので、自動的に声や態度に変化が生まれざるを得ないということ。2人のときと4人のときでは身振りが異なるだろうということ。
・はじめを小さく始めることで、観客の耳を『チューニング』すること。

ここらへんは前作「とおくはちかい」のときにやってたので確信があったし、俳優との間でもコンセンサスを取って自覚的にやっていたと思う。
「チューニング」という言葉は稽古場でも使っていた。演劇の上演に置いて冒頭のシーン(からどれくらい時間を掛けるかはそれぞれだけれど)というのは、物語の冒頭・場面設定という以外に、作品のルール、いわば見方を観客と共有するために大概据えられていて、この作品で言えば観客に「ちょっとだいぶ声がちっちゃいんで、積極的に聞いていただかないとあまり作品に入り込めないですよ」という注意喚起を、冒頭のシーンでしている。観客に『聞く耳』を持ってもらうための数分間だ。
『チューニング』というふうに言うかはともかく、多く演劇作品はこのようにデザインされている(と、僕は思っている。)そしてそのチューニングによって、観客の身体の状態は実は操作されている。というか観客は無意識か意識的にか、冒頭の数分間によって上演の時間と、自分の身体をチューニングしているはずだ。このチューニングがうまくいかないと、「よくわからなかった」となったり、寝てしまったりする。(ちなみに、寝て起きると急にチューニングがあったりすることもある、完全な雑談だけど)
たとえば劇団どくんごは必ずこういう形で劇の冒頭を始め、観客をチューニングする。
「今から、出し物をします。どくんごのお芝居はね、お話とか、ないから!つながりとか、ないから!だからそういう事を考えて見ても、無駄です。」
言葉は必ずしもあってないかもしれないけど、必ずこういう風にして上演が始まる。だから観客は安心して奇っ怪な出し物を見つめ続けることができる。ここまでわかりやすいチューニングもないが、どの演劇の上演もそういう操作がされている。
弦楽器のことを考えるとわかりやすいかもしれない。弦楽器は演奏前にかならずチューニングをする。ギターであればペグと呼ばれる部分で弦のテンション(張り具合)をゆるめたりより強めたりしながら調音する。その場が乾燥しているか、湿度が高いのか、新しい弦か古い弦か、演奏する曲目によって変則チューニングを取り入れることもある。そういった状況を鑑み、毎回毎回チューニングという操作は行われる。ライブを見に行った時、大概MCとかのタイミングでギタリストやベーシストがペグをくるくるしながらチューニングしている姿が見られるだろう。そういう操作が、観るときの身体(=弦楽器)には起きている、と思ってほしい。
そして、演劇の場合は弦ではなくて、「時間(感覚)」をチューニングしているはずだ。

演劇の上演には3つの時間が流れている。これはどの劇もそうなのかはわからないけれど、すくなくともこの作品では、

・観客が見ている今ここの時間(=実時間)
・舞台上で流れている部屋の時間
・物語の時間

という3つの時間が流れている。通常は舞台の時間=物語の時間と観客の時間を分かち、物語の時間に観客を没入させる。俳優も物語の身体を持ち(つまり、キャラクターを背負い)大概時間の経過は観客が見ている今ここの時間よりも速い。なので、そのように舞台はデザインされ、観客は実時間よりも速い、舞台の時間に自分の時間をチューニングする。

屋根裏ハイツの劇では、観客が見ている今ここの時間と舞台上で流れている部屋の時間がイコールになることが基本的には目指されている。イコールになるということは、観客は発される言葉と同等に身振りや身体のありよう、それからそこにある物質(テーブルやソファ)のことが意識できる、ということを意味している。日常私達は話をする以外に様々なことを同時にしていて、同時に意識している。ただ演劇の上演を観るときは、(演劇に親しみを覚え、よく視ている人であればあるほど)演劇を見るときの通常チューニングみたいなものがあって、それはつまり上述のような今ここよりも速い、物語の時間をプリセットでスタンバイさせていることが多いので、それを一度解きほぐし、日常の時間に近づけさせるための時間が必要になる。
僕の中では、物語はこの「今ここの時間」の身体を見てもらうための補助線に過ぎない。物語があることによって、時間の累積や出来事の蓄積をストレスなく観客が体感できるようにする、そのための補助線として位置づけてもいる。それによって失われることもある。物語の時間というのは強い。物語は時間的で、ある一定の時間の経過を観客と共有する上演という構造ととても相性が良く、そのラインを追いかけることは演者にとっても観客にとっても楽なことだ。そこによってしまうと、あらゆる身振りや動きが物語に回収され、あえて残していたと言ってもいい「不明」や、「余地」の部分が意味となって形を帯びてしまう。多くの演劇では、あらゆる身振りや動きが物語に意味づけられ紐付けられることは、むしろその動きが効果したことを指すかもしれないが、そもそもそんなに太い幹のストーリーがあるわけではない今回の作品ではストーリーに観客の関心が言ってしまうよりも、舞台上の身体の状態、流れている部屋の時間を観客が捉えたほうが良い。
だから僕たちの間では、上演が物語に引っ張られ過ぎたと感じられたときは「失敗」である、ということにしていた。(これは上演前に決めていたというよりは、公演を重ねていく中で言語化されていったと思う。)

この「今ここの時間」を常に実現するために正直事前にできることというのはない。
このタイミングでこう動く、みたいなことをすべて決めてしまっては、毎回毎回条件の違う上演において物語の時間につなぐことにはなれど、今ここからは離れてしまうだろう。
とはいえ全ての動きがアドリブなわけではない。むしろいわゆる「アドリブ」と呼ばれる部分は一つもない。「アドリブ」は舞台上で流れている時間を一度中断し、現実の時間を入れ込んでしまう。それでは積み重ねられた舞台上の時間が崩れてしまう。
だから俳優は毎回毎回、現実の時間と、物語の時間と、舞台上で流れている部屋の時間、この3つの均衡を保ち、どこか一つに寄せないようにするという作業をしていた。と思う。毎回毎回、観客の状況を見ながら、味わいつつ、物語のレールに乗りすぎないように、あの部屋を過ごすということを念頭に起きながらテキストを遂行していた。

ということを、うまく言葉化できたのは今回が初めてだ。今まではここまで自覚的に時間を操作してこなかった。それは俳優とそういうイメージを共有できていなかったからだし、演出がなにか手を施さなければならないということに縛られていた。
今回は上演後にしていた作業はいつも、「こんなふうに見えた」とか、「この動きは良くなかった」という感想を言うだけで、「これをこういうふうに変えてほしい」ということはなかったように思う。その感想を受けて、俳優は自分たちの動きの精度を高めていっていたと思う。セリフ飛ばしたりは割とちゃんと言ってた気がするけど。

その分上演ごとに出来不出来があまりなく、むしろ毎回体感の違う上演になったのでは、と自己分析している。
ちなみに横浜公演の千秋楽が終わったあと、(僕はレンタカーを置きにいったりで遅れて参加した)打ち上げの席で俳優が最後の上演はどうったのか?と感想を求められた。こういうのもあんまりこれまでなかったような気がする。公演は閉じたけど作品は閉じていないような、また続きをやってみたいような感覚になった。

という、こんな発見があった。ところで稽古日誌は閉じようと思います。
アンケートまとめも公開しました。 
12日には東京で、14日には仙台で検証企画も控えてます。
皆さんのご来場お待ちしてます。

検証企画まで期間限定で公演の映像を公開します。

仙台公演 撮影:小森はるか
横浜公演 撮影:佐藤駿(定点です)

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振り返ってばかりですが次の作品を作るためにまた進んでいこうと思います。
今年もどうぞよろしくおねがいします。

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