真実味を得ることで、失効してしまったかのように思えるものについて

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本日はご来場いただきありがとうございます。まさかこんなに早く杜劇祭のPDをやることになるとは、本当に思ってもみませんでした。ありがとうございます。

題材となる、「茶色の朝」という本は1998年にフランスで出版され、2002年にフランスで大ヒットした作品(なんと1ユーロで売られたのだそうです。)だということなのですが、まあ日本でも出版されて久しいのですが、できるだけ多くの人に読んで欲しいなあ、と思うので、是非気になった方はお手にとっていただければと思います。そうやって何か形として残るのは、本であり、絵画であることの、良いことですね。反対に、パフォーマンスは形として残るものがないのですが、(パフォーマンスをする)彼/彼女が「いた」、ということは残ります。彼/彼女はなんだかとても異質なものです。その異質なものがいたという形跡は、空間にとどまらず、残存しているのだと少なくともわたしは信じています。


わたしたちのこの上演が「茶色の朝」に頼りなげにぶら下がり、付与されて、そうやって本が多くの人の手元に渡るとしたならば、これ以上にうれしいことはありません。

最後までどうぞごゆっくりお楽しみください。


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これは、杜の都の演劇祭プログラムB『茶色の朝』の当日パンフレットに僕が気の抜けた顔と一緒に掲載したコメントです。上演後に本番に本が手に渡ってほしい、ということを想定して書いた言葉です。

本当なら会場で本を販売できればと思ったのですが、様々な都合で間にあわせることができず上演にいたりました。この先、もし本屋で作品を手に取るようなことがあれば、是非お手にとって読んでいただければと思っています。その時少なからずこの体験は作用するはずです。その時どのように作用するのか、それを一番楽しみにしているし、いつかもし本を読むことがあれば教えていただければと思います。そういうことを意図して作品を作りました。


少し、違う話をします。
作品の話です。作品の内容のあらすじはこちらをご覧いただければと思います。

http://www.otsukishoten.co.jp/book/b51933.html

世界が茶色の世界になっていくこのお話は、つまりこれは全体主義にむかっていく世界の言い換えなのですが、(寓話、訓話なので、何かそういった諷刺が絡みついています。)今の日本の現状とあわせて考えざるを得ない。そうやって考えたお客様が多かったですし、むしろ絡めないで考えたらおかしいんじゃないか、と思うような、そういう作品でした。
今回の上演は、会場のまめ坊さんの窓から降り注ぐ日差しによって、雨や雪によって、上演の雰囲気が左右されるものだったのですが、当然、こういった世の中の空気も大きく作用するものです。(そうでない作品はきっとないと思います)


初日の12月11日の前日12月10日に特定秘密保護法案が施行されました。
前半が終わった翌日の12月14日に衆議院の選挙がありました。
自民党が低い投票率の中、前回よりもやや議席を減らしながらも、圧倒的多数派として、「勝利」を収めました。

僕はもちろん、この時代の空気の様なものと無関係な顔をして上演を行おうとは思ってはいませんでした。
ただ、この空気に向かって主義主張をしたいとも思いませんでした。

「茶色の朝」が多くそういった形で利用されてきたように、用いたいとは思わなかったのです。
どちらかと言えば「空気」がどのように、この作品に作用するのかを確かめたかった。

だから公演のちょうど中間に選挙があったことは、大きな楽しみでした。この選挙の結果が、何か如実にこの作品に作用してくれはしないかと、少し期待を寄せていたものですから。
結果を言うと、作用はしたのだと思います。それは先ほど述べたように、現代に生きている人が上演を行い、そして立ち合っている人間が生きている限り当然のことなのだと思います。
しかし、それがあまり作品が良くなる方向には行かなかったような気がしています。

僕はこの作品が持っている意味をもう少し広げたかった。
端的にいえば政治色の強い、メッセージ性のとても強い、言いかえれば視野の狭いこの物語の意味を広げたかった。
言葉をもっとぶよぶよと太らせて、空間に放り出したかった。
そういったパフォーマンスは前半戦の方が多かったように思いました。
後半になればなるほどその意味は狭まっていったように感じた。
その体感は、公演と公演の間に稽古を上手にはさむことができないまま後半戦を迎えたということに一番大きな原因があると思うのですが。(間が開いたのにもかかわらず俳優は慣れていったことも一因かもしれないです。)
そうではなくて、世の中に起きたことが、この「物語」の意味を狭めたのでなければ良いと思います。


意味を広げたかったのではないのかもしれません。
具体的な話をします。

この物語には「俺」と「シャルリー」がいました。それ以外に例えば「ビストロの客」がいて、「こども」がいます。
厳密に言うともっと多くの人がでてくるのですが、それは割愛します。
「足もとで死んでしまった白のプードルのために泣いているこども」のことを、僕は少し目立たせて演出しました。
少し大げさにいえば僕が扱いたかったのは「わからないでいて泣いているこども」のことで、「自分の生活があるから流れを受け入れていこうとする俺」のことではなかったのです。
ましてや、「『俺』の姿を見て、自民党のことを声高に糾弾する人」を扱いたいわけではありませんでした。
僕は「子ども」が「わからない」ことを「わからない」ということの強さを強く信じています。
「わからない」と言葉にすることができなくても意思を表示する強さを。
そしてできれば僕もその意味では「子ども」でいたいと思っています。

後半の上演では、その「子ども」が死んでしまったような感覚を覚えました。
それはつまり言い換えれば与えられた容器にすっぽり収まっているということで、あるいはこの上演が異物ではなかったということです。

どうして「子ども」がいなくなってしまったのか、その忘却に抗う術はお前にはなかったのか、と今も考えています。
演出の力不足でもあり、「茶色の朝」に真実味を得てしまった世の中の空気であったのかもしれません。

「子ども」を失った上演は、とたんに形骸化しました。
それでも作品を面白がってくれた人がいるというのは、このとても力強い寓話であるからこそだと思います。

構造の力は、反対に悪目立ちしました。僕にとって「斬新な演出」は全くほめ言葉ではないので。別に斬新じゃねえし。二番煎じです。
中身が失われ、構造だけが浮かび上がることは、悪い作品の条件です。
しかし、それは作品に限った話ではないと思います。
右向けば右の世界では、左を向く人がいる。たったそれだけのような世界の虚構であってはならないと思います。どうか、前を向いたり、上を向いたり、うつむいたり、そういったことはできるようでいなければならない。
その余地はいつまでも、残されていなければならない。

終わった作品のことをこうして言葉にすることはあまり感心できることではないと思います。
上演はおわりますが、本は残ります。

上演はおわりますが、しばらくは僕も新たな作品を作り続けるでしょう。作らなければと思っています。
(無関係な話ですが、演劇をやりつづけることにたいした意味はないと思っています。)

次の作品は「子ども」を失うことがないように。 その為に何かを失うとしても。それこそが虚構の持つ豊かさだと思っているので。

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