今、ここで作品を作ること。

しばらく仙台を離れていました。
2つの現場がたまたま続いて、京都→新潟を直接移動することになったためです。両親の仕事柄からか、こういう生活には憧れがあったのですが、実際のところひどく疲れたようで、体調悪く今日のバイトは早退けしたりと、身体は内からも外からもぎゃあぎゃあ言っていたということに気がつかされたのでした。
葛根湯を飲んで寝ていたら思いの外回復したので夜は次の次の現場の稽古に。

情報はまだオープンにできないのでその事はさておいておいて、今取り組んでいるのは既成作品。

音響で携わった蛙昇天もしかり、既に有るものをなぜ今やるのかということは、どうしても考えざるを得ないことです。

もちろんその事は自分で本を書くときも「なぜこれを今書くのか」ということは考えているし、今書かざるを得ないことを書いているつもりなのだけれど、既成と対峙すると、途端に明白に「今ここ」が現れてきます。

そして「今ここでやらざるを得ない」ことはできれば観客に届かなければならない事項で、そういう作品を見る事が出来れば、あるいは現在と作品をうまくつなぐことができれば、僕は一観客として満足するし、そういう作品求める部分が大いにある。


物語というのはなんだかよく人がよく死ぬ。あるいはよく人が愛し合う。
裏返せば人が死ねば結構物語なのだし、愛がどう転がろうとも愛があればわりと結構物語である。

若手の作品なんかだとやっぱそこが上手くないことが多くて、物語のために死ぬやつが大概いたり、物語のために恋愛が成就したりしてなんとも本末転倒なことがままあります。(これは京都に行って全国学生演劇祭を見て思ったことでもあるけど)

自分も書くとき、そんなことにはならないように細心の注意を払ってるつもりではあるのだけれど、「暗くて〜」の感想にあったみたいに、「構造を見せるために死を扱うな」というお怒りをくらうこともあったわけで、一つ一つの言葉にわざわざ耳を傾けることはないにせよ、同じ轍を踏む一人の若手である、ということには変わりないわけで。

だからなんだという話だけれど、
この作品は如何にして現在と接続して、してやるのがいいのだろうか。
そんなことを考えながら稽古場にいたのでした。
(この現在は、「僕」と置き換えても良いのかもしれない。)


いつだって現在はいつかの「以後」でありいつかの「以前」である。
その流れの只中に1つの楔を打ち込むこと。そこにどんな文脈をそれぞれが用意してくれるのか、僕は用意するのか…

そうして稽古は進んでゆきます。




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