『二十一世紀旗手のためのワークショップ』を実施しました。その①
こんにちは、中村大地です。
そろそろブログの書き手も僕以外のがあったほうが色々振り幅在って良さそうです。次の稽古は誰かに稽古日誌を書いてもらおうかしら・・・
さて、タイトルの通り、先週7月4,5日に、 『二十一世紀旗手のためのワークショップ』を実施しました。ダンサー、振付家の磯島未来さんに、ファシリテーターを務めてもらい、身体と言葉を巡るワークショップを、出演俳優に、してもらいました。(2日目は僕も混ざってしまいました。)
その模様を、アップしたいと思います。
まず、なんで磯島さんに、なんでこの時期に、やったのか、ということを、簡単に説明します。
喋ってない時に舞台上に「ただいる」ということ(ただいる、って、その場にいて、舞台上にある全ての情報に気を取られている状態のことだと思う)を、舞台上でしっかり俳優にはやって欲しいと思っています。
演劇(と十把一絡げにするのもまずいけど)を見ていると、セリフを言うための補助器具として身体の動き、身振りが使われていることが割とあって、そうすると、喋ってない時の身体がおざなりになってしまうことが良くあって、その時の身体のこと(「ただいる」ということに興味関心のない身体のこと)が、僕はあまり好きではありません。
なので今回はできれば身体と言葉を平等に扱いたい、扱おう、と思っています。
平等、と言葉にして見たはいいものの、はてさてそれをどうしたら良いものか。
ダンス(また十把一絡げ!)は、反対に、身体が言葉よりも目立つことが多いです。言葉も、身体のために扱われることが多い。その方が、僕は日常の所作に近いと思っています。そしてそういう身体の方が面白いと思っています。
そして、僕が見た幾つかの磯島さんは、あるいは作品に登場するパフォーマーは、よく「ただいる」ということをやっていて、「ただいる」ことに神経注いでる感じが、見ててします。(それはコンテンポラリーダンスで当たり前のことかもしれない?)
「ただいる」ことの延長線上に、「言葉と身体を平等に扱う」というニュアンスは位置しているんじゃないかと、直感では思っていて、この「ただいる」ということをやりたいと思った時に、できれば僕の話す言葉とは違う言葉でやってくれそうな人が、先ほど言ったみたいに、僕の仙台の知り合いの限りでは磯島さんだった、から、磯島さんにお願いしました。
そして、本番の5か月前にやったのは、このワークショップを経た身体で、「体と言葉を平等に扱う」ことをしたいと思ったからです。シンプルに。
(簡単じゃなくなっちゃった。)長くなりましたが、じゃあまず一日目を振り返ります。
この日僕が合流したのは、19時過ぎだったので、それまでについては、村岡の稽古場レポートから引用しようと思います。
■自己紹介(名前、年齢、最近興味があるもの、演劇始めたきっかけ、今後目指していること、最近の悩み)
■空間を歩く(速度変更、すれ違う人を見る、すれ違う人を笑う、すれすれを通り過ぎる)
・速度が変わっても、距離が変わっても相手を見る
・足音はなるべく立てない
■鬼ごっこ
ここら辺から僕も稽古場に入ってみてます。
WSとは違って今までの稽古は動かないし頭使うみたいなのが多かったから、みんなが激しく動いて汗をかいているのが新鮮という、妙な感じ。(屋根裏前の作品から汗かかない系だったし。)
さてさて、次からも、村岡さんのまとめレポートをお借りして振り返っていきます。
■エアーバレーボール
3vs3で、架空のバレーボールを使って試合をする。10点先取。
・ボールを取る人が、確信を持ってボールを取れば成立する。
相手コートに明らか返球できてないだろ!っていうのでも、相手が拾っちゃうと、成立した感じになる。というのが、一番見てて思ったところです。
■居心地の良い場所を探す→いろんな場所から一斉に動き出してその場所に移動する
・動き出し、全体にアンテナを張る。
→張りすぎて怖くなり萎縮しちゃう
ここからいよいよ、最初に言った「ただいる」みたいなことに近づいていきます。自分の居心地のいい場所を、居心地良く保ち続けるためにはどうしたらよいのか?
・居心地のいい場所がだんだん新鮮味なくなり死んでいく
居心地がよかったはずなのに、繰り返すことで、居心地のいい場所がそうでなくなっていく。新鮮さはどうやったら担保できるのでしょうか?
■いろんな場所からそれぞれのタイミングで居心地のいい場所に移動する
・自分にベストなタイミングをはかる
・最後の人は遠慮して動き出しを急いでしまう傾向
みんな真面目なので、空気をなんだか読んでしまう。空気を読んだ結果ベストな感じにはならない。性格がでます。
■それぞれのタイミングで居心地のいい場所に移動し、全員移動してから10分間そこに立ち続ける
・10分間の過ごし方の違いで、生き続けたり、枯れたりする。
・飽き、眠い、無の状態は枯れていく
・自分の中でストーリーが出来ている人は生きている
まさに、「ただいる」。打ち合わせの時から、「これをやろうかな」とおっしゃってました。10分立ち続けるのを見続けるのはつまらないかというと、そんなこともなく。途中で一回音楽が入るという変化があるのもあるんですが、やっぱり充足している身体はそれだけで十分見ごたえがある。見ていて、充足している、と思わせる俳優と、俳優自身の中にあるイメージの強さに相関関係があるのが発見。
■倒れる(円になってただ倒れる→一人だけ倒れる)
・倒れて終わりではなく起き上がるところも自分の時間にする
・倒れるタイミング、どこが美味しいかはかる
倒れる。というアクション。「別にバタンと倒れなくてもいいし、 起き上がるときもどう起き上がったっていい。倒れるというアクションをどう捉えるか。」磯島さんの言葉で様々なトライを俳優たちもします。
僕的には、自分の行為の大きさを意識して、それがいったい舞台上にどんな効果を及ぼすのか意識して動いたほうがいい。
みたいなことをこの前の稽古で言ってたので、そのこととも僕の中では関係を持ったこのワーク。この日のメンバーはやっぱり真面目。 良し悪しですが、磯島さんの提案を結構素直にやります。
■二列で一緒に歩き、誰かが倒れる
・倒れる、を乱発させない
→大事にすると倒れることに勇気が必要になる。
歩きながら、自分のおいしいタイミングで倒れる。
二人が同時にバタンと倒れたりすると、それはかなり劇的。
倒れた、それから、後ろの人がどう対処するのか、他人を巻き込むことで当たり前だけれど広がることがあります。
倒れるという大きな挙動も、頻発すると、その動きの大きさに麻痺して、ビビッドに感じられなくなる。倒れる、を大事にする。倒れたことをきちんと受ける。
そういうことが求められているのかな、と思いました。
ちょっと見づらくなってしまったのですが、こんなところで1日目は終了。長くなってしまったので2日目はまた分けて更新します。
そろそろブログの書き手も僕以外のがあったほうが色々振り幅在って良さそうです。次の稽古は誰かに稽古日誌を書いてもらおうかしら・・・
さて、タイトルの通り、先週7月4,5日に、 『二十一世紀旗手のためのワークショップ』を実施しました。ダンサー、振付家の磯島未来さんに、ファシリテーターを務めてもらい、身体と言葉を巡るワークショップを、出演俳優に、してもらいました。(2日目は僕も混ざってしまいました。)
その模様を、アップしたいと思います。
まず、なんで磯島さんに、なんでこの時期に、やったのか、ということを、
喋ってない時に舞台上に「ただいる」ということ(ただいる、って、その場にいて、舞台上にある全ての情報に気を取られている状態のことだと思う)を、舞台上でしっかり俳優にはやって欲しいと思っています。
演劇(と十把一絡げにするのもまずいけど)を見ていると、セリフを言うための補助器具として身体の動き、身振りが使われていることが割とあって、そうすると、喋ってない時の身体がおざなりになってしまうことが良くあって、その時の身体のこと(「ただいる」ということに興味関心のない身体のこと)が、僕はあまり好きではありません。
なので今回はできれば身体と言葉を平等に扱いたい、扱おう、と思っています。
平等、と言葉にして見たはいいものの、はてさてそれをどうしたら良いものか。
ダンス(また十把一絡げ!)は、反対に、身体が言葉よりも目立つことが多いです。言葉も、身体のために扱われることが多い。その方が、僕は日常の所作に近いと思っています。そしてそういう身体の方が面白いと思っています。
そして、僕が見た幾つかの磯島さんは、あるいは作品に登場するパフォーマーは、よく「ただいる」ということをやっていて、「ただいる」ことに神経注いでる感じが、見ててします。(それはコンテンポラリーダンスで当たり前のことかもしれない?)
「ただいる」ことの延長線上に、「言葉と身体を平等に扱う」というニュアンスは位置しているんじゃないかと、直感では思っていて、この「ただいる」ということをやりたいと思った時に、できれば僕の話す言葉とは違う言葉でやってくれそうな人が、先ほど言ったみたいに、僕の仙台の知り合いの限りでは磯島さんだった、から、磯島さんにお願いしました。
そして、本番の5か月前にやったのは、このワークショップを経た身体で、「体と言葉を平等に扱う」ことをしたいと思ったからです。シンプルに。
(簡単じゃなくなっちゃった。)長くなりましたが、じゃあまず一日目を振り返ります。
この日僕が合流したのは、19時過ぎだったので、それまでについては、村岡の稽古場レポートから引用しようと思います。
■自己紹介(名前、年齢、最近興味があるもの、演劇始めたきっかけ、今後目指していること、最近の悩み)
■ストレッチ
■頭を押される、引っ張られる
(頭を押されるイメージで膝を曲げる。頭を引っぱられるイメージでつま先立ちになる。)
・イメージをきちんと持つ。嘘をつかない。
・実際に押される、引っ張られるを体験した後、改めてイメージでやるとどう変わるか。
→押される方のイメージが湧きづらい。/実際押されたときの感覚(どこに力が入るのかなど)を思い起こしながらやるとやりやすい。/イメージのときの方がゆっくりになった。
■頭を押される、引っ張られる
(頭を押されるイメージで膝を曲げる。
・イメージをきちんと持つ。嘘をつかない。
・実際に押される、引っ張られるを体験した後、
→押される方のイメージが湧きづらい。/
実際に押されてみるのと、イメージの押されるは違う。(後ろ姿は磯島さん) |
■空間を歩く(速度変更、すれ違う人を見る、すれ違う人を笑う、
・速度が変わっても、距離が変わっても相手を見る
・足音はなるべく立てない
■鬼ごっこ
躍動感。 |
ここら辺から僕も稽古場に入ってみてます。
WSとは違って今までの稽古は動かないし頭使うみたいなのが多かったから、みんなが激しく動いて汗をかいているのが新鮮という、妙な感じ。(屋根裏前の作品から汗かかない系だったし。)
捕まった数。負けた人がジュースおごります。 |
さてさて、次からも、村岡さんのまとめレポートをお借りして振り返っていきます。
■エアーバレーボール
3vs3で、架空のバレーボールを使って試合をする。10点先取。
トスからの、 |
・ボールを取る人が、確信を持ってボールを取れば成立する。
相手コートに明らか返球できてないだろ!っていうのでも、相手が拾っちゃうと、成立した感じになる。というのが、一番見てて思ったところです。
アタック! |
いろんな位置に並んで |
・動き出し、全体にアンテナを張る。
→張りすぎて怖くなり萎縮しちゃう
ここからいよいよ、最初に言った「ただいる」みたいなことに近づいていきます。自分の居心地のいい場所を、居心地良く保ち続けるためにはどうしたらよいのか?
あらかじめ決めた自分の場所へ。 |
居心地がよかったはずなのに、繰り返すことで、居心地のいい場所がそうでなくなっていく。新鮮さはどうやったら担保できるのでしょうか?
到着。 |
■いろんな場所からそれぞれのタイミングで居心地のいい場所に移動する
・自分にベストなタイミングをはかる
・最後の人は遠慮して動き出しを急いでしまう傾向
みんな真面目なので、空気をなんだか読んでしまう。空気を読んだ結果ベストな感じにはならない。性格がでます。
違う角度からも。 |
■それぞれのタイミングで居心地のいい場所に移動し、全員移動してから10分間そこに立ち続ける
・10分間の過ごし方の違いで、生き続けたり、枯れたりする。
・飽き、眠い、無の状態は枯れていく
・自分の中でストーリーが出来ている人は生きている
まさに、「ただいる」。打ち合わせの時から、「これをやろうかな」とおっしゃってました。10分立ち続けるのを見続けるのはつまらないかというと、そんなこともなく。途中で一回音楽が入るという変化があるのもあるんですが、やっぱり充足している身体はそれだけで十分見ごたえがある。見ていて、充足している、と思わせる俳優と、俳優自身の中にあるイメージの強さに相関関係があるのが発見。
原則は、誰か一人が倒れたら、ほかの人はそれを見る。 |
・倒れて終わりではなく起き上がるところも自分の時間にする
・倒れるタイミング、どこが美味しいかはかる
倒れる。というアクション。「別にバタンと倒れなくてもいいし、 起き上がるときもどう起き上がったっていい。倒れるというアクションをどう捉えるか。」磯島さんの言葉で様々なトライを俳優たちもします。
倒れるが乱発すればいいわけではない。 |
みたいなことをこの前の稽古で言ってたので、そのこととも僕の中では関係を持ったこのワーク。この日のメンバーはやっぱり真面目。 良し悪しですが、磯島さんの提案を結構素直にやります。
集団で歩いて、 |
・倒れる、を乱発させない
→大事にすると倒れることに勇気が必要になる。
歩きながら、自分のおいしいタイミングで倒れる。
二人が同時にバタンと倒れたりすると、それはかなり劇的。
誰かが倒れる。倒れると隊列が乱れる。 |
倒れるという大きな挙動も、頻発すると、その動きの大きさに麻痺して、ビビッドに感じられなくなる。倒れる、を大事にする。倒れたことをきちんと受ける。
そういうことが求められているのかな、と思いました。
ちょっと見づらくなってしまったのですが、こんなところで1日目は終了。長くなってしまったので2日目はまた分けて更新します。