2Fの板の上に立ったことを振り返る

こんにちは。劇団員の塚本です。
もうすぐ2015年も終わってしまいますね、びっくりですね。

屋根裏ハイツ2F『二十一世紀旗手』は、お陰様で検証企画も含めて終了しました。
スタッフ陣との反省会は年明けですが、明けないうちに振り返っておこうと思います。
一人の俳優の振り返りです。


上演しながら、これは作品単独では完結しない、観客の多大な協力がないと成立できない作品であることをひしひしと感じた。
舞台上の世界はほとんどないようなペラペラな虚構で、在るのは俳優の身体だけで、世界は現実側にしかないように思えて、
けれども作品の中心を現実側に置くことで、舞台上の言葉や行為は、広大な時間や対象を背負える可能性があったように思う。
実際どれくらい背負えていたのかは、わからない。

私は舞台の上では、赤いセーターを着て白いスカートをはいていたナカジマという女の人で、上演の始めと真ん中と最後にトコトコでてきて、1回ずつ喋る。
だから生で発する台詞は計3フレーズ。(映像でもう3回登場するが)
稽古でのダメ出しは、しっかりお客さんに届けてくれ、ほぼそれしか言われなかったきがする。
私はひたすら、お客さんを見て、はっきり発語していた。
小屋入りしてからの稽古であるとき、
ラストの台詞に入っている"私たち"という言葉、その"私たち"にお客さんも含めてくれ
という少し詳細な注文を受けて、それが私の中で最重要ミッションになった。

言葉はいろんなものを内包できる可能性を持っている。
"私たち"には何が含まれているだろうと考えたとき、
わたし自身や共演者たち、観客、かなと思うのだけど、それらを物体や点として捉えながら発語しても威力が足りないようだった。

"私たち"のことについて語るラストの台詞は、そこまでで私たちが過ごした舞台上の80分を含んでいて、
その、舞台上に流れていた時間、つまりお客さんと共有した時間を担保にして、それぞれが今日まで生きてきた時間に接続するみたいな、そういうことができる言葉なんじゃないか

と、初回を上演しながらぼんやり気がついた。

だからラストの台詞を喋るときは
そこまでの上演
自分の生きてきた時間
客席に座る人間が生きてきた時間
と関係を持つ、接続する、あるいはそれらを内包しようとすることで身体、声、空間にテンションを発生させていた。

いつだってパフォーマンスに求められるのは緊張感、それは恐らくテンションのある声、身体なのだろうと思っている。
屋根裏ハイツのこれまでのクリエイションでも、人(観客や俳優)、物、写真、映像、光、音といった知覚されたモノと関係を取ることでテンションを生み出す試みをしてきた。

"時間"と関係を取ることもできるようだ、というのが今回の最大の発見。
そのパフォーマンスが客席からはどんな風に見えてたのだろうか。
演出に今回の演技はどうだったか漠然と聞いてみたら、ああいう言葉を預けられる人だなとは思った、と言われたので
……きっと健闘したということだろう。

上演の最後に「私たちの声もいつしか沈黙へと変わる」
と言ってメンチ切った手前、外でにこやかに話したりする気分になれず、ほとんど客出しはせずに楽屋に引っ込んでいた。
上演後も自分とお客さんの関係をガラッと変えたくなかったのかもしれない。
脚本に登場人物の背景が匂ってくるような描写はほとんどない。
かといって詳細を想像して人物像を作ることも求められていない気がした。
だから、ただ生身の私が舞台の上に立っていたように思う。


ざっと、私にとって2Fはこんな感じでした。
振り返り、終わりにします。

いろいろなことを思い返しつつ、消化しつつ、2016年を待とうかと思います。
皆さま、それぞれに良い年の瀬をお過ごしください。


塚本恵理子

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