3F『再開』稽古記録 4/18

本番前の集中稽古はじまりました。
制作のみさわです。

『再開』のイントロダクションとなる状態を考える回。

以下、今日の稽古での「語り」の感想メモです。
(まとめるのがめんどくさかったわけじゃないよ)

・俳優たちは、戯曲ではない、口伝によって聞いた話を語っている。それは三人称視点での話であり、一般的な台詞としては発語(?)し難いものだと感じる(台詞ではないけど)。なぜなら、演劇における三人称は、説明的になりがちなので、制作の現場では、それを排除する方向に傾倒してしまうから。
 一般的に、俳優(というか舞台上に立つパフォーマー)は常に「必然性」を求めていると思う。つまり、自己の必然化。
「語る」という行為の必然性において、前回の稽古日誌で、他者に依拠する「必然性」ではないかと言及していたが、バランスが重要だ。押し売りにも、置いてきぼりにもならない「語り」とは何なのだろう。                                            
 
・語ることが、説明することに置き換わってしまった時点で、それは既に聞き手への「押し売り」状況に陥っている。

・説明的な演劇の、何を避けたいのか、というと、必然化のフレームだけが強調されることを避けたいのでは?

・セレンディピティを大切にキャンペーン

・「聞き手」という身体があったとしても、その聞き手が、能動的な「聞き手」として語り手と関係が結ばれていない状態だと、語り「継ぐ」ということが成立していないのでは、という疑問。
それはつまり、いわゆる「モノローグ」(便宜的にこの言葉を使用しています)になっており、聞き手に、本当に引き継ぐ/語り継ぐ、という行為をしているのか?ということである。

・インタヴュアーとインタヴュイー的な関係性とか?

・「語り継ぐ」ことは「教える」ことに似ている

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