2016年2月22日月曜日

3F『再開』西和賀滞在記録 2/21

加藤村岡中村
記録:中村
ルールを定めたくせに遅れてしまった。
まわってこないって自分のFacebook更新したら見事にくじを引き当てました。
なかむらです。
つっても今日は稽古じゃないけれども。日々の記録ということで。

今日から自分の大学の公演の片づけがあって一度仙台へ帰るあゆみ君を見送りに朝6時半に起きてほっとゆだ駅へ。
出発の電車の到着までは間があるが、駅にある温泉に浸かるため少々早く出かける。
西和賀の風呂は入浴料がどこも300円と格安。代わりに貸しタオルが他地域より高かったり、かぎ付きのロッカーの百円玉が帰ってこずに吸い込まれたりはするけど、それは生活の違いだろう。

あゆみ君を見送ったあとはやや時間つぶしをする。
朝ご飯を提供しているような店は無いので、湯夢プラザという観光センターや車中でだらだら。

9時になったら朝飯はもう何度かブログに出てくる格安スーパーオセンで。僕は焼きおにぎりとかまぼこのみそ汁とメンチカツ。他の二人は海鮮丼食べてた。

その後また車中でだらだら。して、今日の目的である「忙中閑」というカフェに行くために沢内へ。

外観取り忘れた


ギンガクの森さんがスゴく推していたのと、珈琲俳優加藤の血が騒ぐからだ。(僕も行きたかったし)

店内には所狭しと習字の書が
チーズケーキ、ティラミスみたいな感じだった。こってりしたのがコーヒーにあうあう。

チーズケーキもコーヒーもチョコレートケーキもとても美味しかった。

珈琲俳優と珈琲マスター

珈琲俳優はコーヒーの淹れ方でマスターと盛り上がっていた。
その後みんなでいろんな話をした。僕ら以外にお客さんもいなかったのでマスターと膝をつきあわせて。

店内には硯や筆や、習字道具一式が置いてあって、せっかくだから何か書いてもらうことにした。
ベタだけどタイトル書いてもらった。かっこいい。


皆書いていくことに。書道なんて久しぶりにした。


習字を立って書く。


「いいでしょ?参加型の喫茶店。」
時間が立つのも忘れて、色々書いて、忙中閑をあとにした。また来たいな。
作品の数々

それから移動してほっとゆだ駅周辺に戻る。旅に来る前から見たいとギンガク委員の方にお願いしていた、ぶどう座の高橋節子さんの昔語りを聞くためだ。夏のギンガクの時のやつがYoutubeにあがっている。

場所はぶどう座の稽古場。50年くらい前からある木造の小劇場。こんな小さな村に70席の小劇場がある。今はあまり使われてないみたいで、積もった雪の上を、踏み固めながら道を作って進む。
到着すれば先に節子さんは稽古場にいらっしゃった。
昔語りは、舞台の上で何度もやってきたものではなくて、小さいころに夜な夜なおばあちゃんに語り聞かせてもらったから、頭の中に入っていて、話しているとそのおばあさんの声が聞こえるのだそうだ。だからか、普段話している時と、その話にはいる時では明らかにモードが違う。例えば低くしたの一点を見つめて話をするのだけれど、それはおばあちゃんが節子さんに語り聞かせていた時の姿勢と同じ姿勢なのだそうだ。
みていてもやっぱり『宿る』という字の如く、大きな過去の時間と接続された身体が目の前にあったと感じることができた。


節子さん、けいじさんとの語らい


それから、ぶどう座の話もしてもらう。ぶどう座の話をすることはまちがいなく地域演劇のことを考えることで、地域演劇史のことを考えることでもある。川村さんの戯曲のことを思うと、僕は石川裕人さんの戯曲とOCT/PASSのことを思わざるを得ないのだった。

さて、昨日の通しをYoutubeにあげて、それを送ったら早速森さんがみてくださったらしい。
ぶどう座から鳳鳴館へもどったところで色々話してもらう。
課題は「これをどうやって『演劇』にするか」だねという話になった。
昔語りは、それが背負っている先人たちの記憶や過去のそのニュアンスは、やっぱり膝と膝つき合わせた身近な距離の中でこそ生まれる。それは物理的な距離のことと考えて相違ないだろう。
劇場はそのさまざまなニュアンスといううまみをそぎ取るのに格好の場所で、とくに銀河ホールみたいな大きさの劇場はそうだと思う。
そこと戦わないで作品を作っていくという術もあるだろうしむしろ僕はそういう風に作品を作ってきたけれど、期せずしてそこと戦うのだから、それは歓迎しなくてはいけない。
時間がある分それも楽しみにできる。
僕は自分の作品は俳優が弱いとよく言われる。なぜかはよくわからなかったが、舞台上に起こる虚構の出来事に応じらる身体が無いからでは?という話にはなんとなく考えることがある。

僕の創作の出発点は、演劇を見るにつれ次第に感じるようになった「演じられる」とかいう思いこみと確信をもって観客を置き去りにしていく演出や俳優の姿への批判というかほとんど嫌悪感であり、それへの反発として「そのまま」の状態で立ってくれ、「からっぽ」であってくれと俳優に求めてきたのだと思う。舞台上で起きる出来事をよく吸えるように、満たすことができるように。
そしてそれはあまり間違っていない。舞台上の偶然に対応できない体は恐ろしいほど貧乏だからだ。
ただどんな「からっぽ」でもいいのかといえばそうではなくて、いいのと悪いのがその中にはあると思う。
「からっぽ」を作るためにはたぶん一度中身をいっぱいにする必要があって、それから空にすればいい。
「からっぽ」の身体はたくさんの脱け殻が積もり積もっているんじゃないかと想像する。
中身を満たすプロセスをできるだけ充足したものにしたい。

今これを書いてる時間は翌日2/22で、1日の稽古を既に終えている。
効率良く効率良くとはいかないが、遅々とやっていく次第である。