3F『再開』稽古記録 2/8

2/8 19:00-22:00 box6 中村、塚本、村岡、加藤、松井
記録:松井

稽古二回目。30分くらい体をほぐしたりしてから、記録をつける人を前回同様あみだくじで決める。また僕があたりを引く。全然いやなわけではないけど、記録をはじめていきなり連続で同じ人が書くことになってしまった…。こういうこともあるんです。
気をとりなおして、前回の稽古の続きで「相手の話を再現する」WSをした。

前回と同様に村岡、加藤、松井それぞれの適当なエピソードを、語り手・聞き手・第3者に分かれてワークを行った。今回は、3人で三角形を作るような配置で、その場から動かずに語り手・聞き手をチェンジできる仕様にしてみることに。

一つ目のエピソード、加藤の「前のバイト先の店長の結婚式の二次会での話」を全員が話し終えたところで、聞き手ははっきり相づちをうつ、よりも頷き程度に反応をとどめておいた方が語り手が話しやすいのではないか、という指摘がでた。
前回の稽古で相づちについての議論があったので、僕はわりと意識的に相づちしてたけど、実際に語り手になった時に相手に相づちを打たれると、タイミングがかみ合わなくてうまく乗れなかったり、逆に聞き手の相づちにエネルギーを得て語りのテンションが上がっていくことがあった。対して、聞き手の反応を頷き程度にすることで、語り手の話がより自然なふうになって、たしかに語り手的にはとても語りやすかった。どちらが良いとかではないけど、このワークが会話ではなく、ほとんど相手のいる一人語りであることに起因しているような気がする。
また、こういう身体をほとんど動かさずに、ひたすら相手に向かってしゃべる的なワークをやるにあたって、どんなアップをすればいいのか?という質問。身体をほぐすストレッチをたくさんやるよりも、頭・のうみそを起こすようなアップの方が良いのではないかという話になった。

村岡・松井のエピソードは、どちらも「今日稽古場に来るまでの道のりの話」。3人それぞれのエピソードで一周した後で、前回の稽古で行った、エピソードの最後でひとつ質問をして、それに対する回答も再現する、というのでもう一周した。ここで、最初に質問をされる語り手は、基本的にエピソードの持ち主ではないので、そのエピソードに関しては持ち主から語られたことしか知りえない。なので、質問に対する回答は完全にその時の語り手の即興的な想像力に任されることになる。
演出から、「自分の想像力が及ばない、もしくは全く知らないことについての質問をされたときに、詰まったり素に戻ってしまうのではなく、その詰まりを無理やり、てきとうでもいいから何かひねり出して乗り越えてほしい。無理やり感があるとよい。」という指示があった。このあたりから、だんだんワークがモノローグからダイアローグ的になっていく。

次に質問を2つもしくは3つに増やしてみる。さらに、2回目以降に話す人、つまり一回目やりとりを再現する段階では、一回目のやりとりでの質問と回答の内容さえ再現していれば、その質問をいれるタイミングは好きにしてよいことにした。ただし、その時の聞き手が「ここだ!」と思ったところでなければいけない。
語られるエピソードと、それの対する質問の内容は同じであるのに、語り手と聞き手を常に替えることによって、やりとりの内容が全く変わってくる。この時は、もう再現しているのは話の内容だけで、あとはかなりエチュード的な要素が強かった。



「相手の話を再現する」ワークの様子
聞く身体、についてみるために、聞き手も撮っている


結構稽古場では、“イメージ”という言葉を使っていて、たぶんみんななんとなくの共有はできてると思うのだけど、よくよく考えてみたり、実際にイメージを持って話してみる、ということをワークでしていると、このイメージとは一体なんなんだ!と思ってしまう。恐らくこの意味でのイメージという言葉の出どころである、岡田利規氏の演劇論を見てみると、


ある仕草やある身体の在り方を演技としてやる場合に、それをそのとき口にしている台詞(あるいはそのとき頭をよぎっている台詞)から引き出されてきたものとしてやるのは間違っている。
そのときの身体の在りかた(仕草と呼ばれるものを含む)は、台詞からではなくイメージから引き出された結果としてのものでなければならない。

言葉や仕草はイメージから汲み上げられるものだが、イメージのすべてを汲み上げられるものなわけではない。言葉や仕草には、イメージを十全に形にするだけの性能はないし、なくてしかるべきである。 逆算的に言うと、言葉や仕草の性能をそのようにロー・フィデリティなものとするためには、俳優は、人が聞いたらあきれる位の多くの情報量を含んだイメージを形成しておくのでなければいけない。

イメージは複雑なものでなければならない。イメージは、言葉や仕草がそこから汲み上げられてくるところの源泉である。だからイメージは、まず量が多くなければならないし、そしてノイジーなものでなければならない。イメージがノイジーでなければ言葉や仕草はさらにノイジーでないものとしてしか在れないからである。


チェルフィッチュHPより

今回のワークでは、与えられたセリフではなくて、自分の体験をそのまま語るという形式だったので、ここでいうイメージは、具体的には「エピソード体験の記憶」になる(と思う)。しかしそれはエピソードの持ち主が最初に語るときだけで、二回目以降、持ち主じゃない人が語る際にその語り手が持っているイメージは、「前の語り手だった人の語りから想起した、エピソードの情景」的なものになっていき、なので、再現するといっても、最初に語られたオリジナルのエピソードの細部までコピーしているわけではなくて、人ごとに話に微妙な違いがある。しかしここで重要なのはオリジナルの話を完璧にコピーしていることではなく、「イメージを持って話せているかどうか」である。そしてイメージをもって話すためには、前の人の語りから、自分の中にイメージを想起する必要がある。
つまり、豊かでノイジーなイメージを持って語るためには、同時に、大きなイメージを想起できる、良き聞き手でなければいけないのだ。
書いててなんか納得した!今まで僕、最初は語り手から始まると思ってて、だからイメージの順序として語り手→聞き手がいると思っていたのだけれど、そうではないのかもしれない。最初は聞かなきゃいけないのか。
そしてじゃあ次は十全なイメージを想起できる「聞く」とは…ということを考える必要があるのかー。

だから民話もそうなんですね。今回の創作のテーマが「民話」なのですが、民話の語り継がれ方について、「民話を聞いて育った子どもが皆民話の語り手になれるわけではない。子どもたちの中でも、能動的な聞き手だったものだけが語り手になれる。」という話を演出から聞いていて、これも同じシステムだなと。

稽古の最後には、上演に使うかもしれないテキストを回し読みした。WSと同じで、大量のモノローグのあるテキストだったので、その部分は、一回に好きなだけ読んでいい、というルールで読んだ。

まだ上演は全然想像がつかないけど、この記録を書いている翌日からはもう西和賀なので、いろいろ準備しつつ、楽しみです。

稽古後に煙草を吸う加藤
今回の座組みは3/5が喫煙者


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