3F『再開』西和賀滞在記録 2/26

最近よく当たります。中村大地です。
この日はでも、僕が途中抜けする前の最後の稽古だったので、僕が記入できてよかった。

「語り継ぎ」のプロセスをやり始めたこの日。3人の種がそれぞれ一本ずつ話を次の人に語り継いでいく。
聞き手は当該部分の台本を読んでその話のセリフを覚えてはいけない。聞いて覚える。
考えて実践しているのはいいけど、このプロセス、馬鹿みたいに遠回りだ。
具体的にいうと、こういう感じ。

一つの話は5~10分くらい。
1.まず「種」が2回語り聞かせる。
2.どんなにうろ覚えでも引き継ぐ「聞き手」は2回聞いたら種に向かって語ってみる。話が飛んでも、つまってもいいから、必ず最後まで 語り通す。
3.話し終えたら、次にもう一度「種」に語ってもらう
4.また「聞き手」が種に向かって繰り返す。

語り継ぐ。基本的には立ってやる。そのほうが身体の情報が多くなる。



ほかの人は自分の種を練習したり、聞いたりしている。
「聞き手」は語るとき、できるだけ身振りや、語りから受け取ったニュアンスを自分の語りに乗っけてみる。

この間、種が「どんな気持ちで話していたか」とか、「どういう風に見えた」だとかいう感想の交換は行わない。ただただやってみる。なぜなら「聞き手」の受け取ったニュアンスと、「語り手」の語ったニュアンスにはどうしても相違がある。そこを「間違い」として相違を埋めようとするのではなく、「全部あり」にしたほうが圧倒的に豊かだ。「正しさ」っていうのはそうでなかったほうの可能性のことを多くそぎ落としたもの。

1時間くらいやると大体、一つの話の展開を追って話せるくらいになる。この二週間のときどきで聞いてきたとはいえ、台本でいうと1~2ページのモノローグが話せるようになるのだから意外と効率的だ。声と身体というものの持つ情報量の多さに驚かされずにはおれない。

舞台美術の実験も一回行った。

午後からは町のホームセンターに出かけて舞台美術で使えそうなものを調達する。
面白い効果も見えたが、確定、とまでは至らず、少し試行錯誤をする必要がありそうだ。



この作品はあまり関連性のない短いいくつかのおはなしを束ねて上演することで「作品」とする。
あたりまえだけど、どう束ねるのかでどんな作品にもなる。僕も何も考えてないわけじゃなくて、西和賀に来る前に思いついて考えていたものがあった。
でも稽古を進めるうちに、一つ一つの語りが僕の適用しようとしている構成よりもだいぶ強く、大きく膨らんでいるように思えるようになってきた。
だからこの構成はもう適用できなくて、それとは違う方法を考えなくてはいけない。
そう思えることは、とてもうれしい、とてもプレッシャーのかかることだ。

数日西和賀を離れるその間がそれを考える格好の期間で、そのように利用する。


今これを書いている久々に訪れた仙台の街は、考えられないほどの多くの音が鳴って、騒がしかった。こんなにうるさい街では、やっぱり少し耳をふさがなくては生きていけない。それらすべてを得ようとすれば、疲れて生活をすることが不能になってしまうからだ。
いろいろな情報を捨象するという行為のなかで「語り継ぎ」の純度や密度は落ちてしまう。

こういう原始的な方法を適用できる身体は、都市の機能に適用した身体ではないのだ。

そういうことを肌身に感じた。この感覚は忘れないようにしたい。



この全身全霊で聞く、語るという行為は、めちゃくちゃ疲れる。みんなヘロヘロ。

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